2005年03月05日作成
2005年03月05日更新
The Special Providence - 旅行日記 - 東急世田谷線(2004年11月19日)(その2)
(その1), (その2)
世田谷城址公園から南下、上町駅の脇の踏切を渡って南側に出ます。踏切西側には世田谷線の車両基地があります(写真11)。フェンスの隙間にレンズを突っ込んで写真撮影。上町駅は三軒茶屋行きホームが踏切の西側、下高井戸行きホームが東側と分離されていて、このあたりもトラム的な感じがします。三軒茶屋行きホームの側には駅員がいて運賃収受を駅側でやっているようですが、下高井戸行きは車両側の収受のようですね。(写真12)は下高井戸行きホーム。
線路の南側へ出てまたしばらく歩いて、今度は世田谷代官屋敷に到着しました(写真3、4)。ここ世田谷は江戸時代に彦根井伊藩の飛び地領で、その代官を務めていた大場氏がずっと住んでいた屋敷がこの世田谷代官屋敷だそうです。井伊領だったとは知りませんでした。江戸時代には良く訳の分からない理由であちこちに飛び地領が存在していて、現在でも残る市町村の飛び地はそれに由来していたりするものですが、さすがに滋賀県彦根市の飛び地がこんな場所に残るわけも無く(苦笑)、東京都世田谷区となったわけです。井伊家は徳川家譜代の大名ですから、江戸屋敷の運営費用を捻出するための領地などということで幕府から割り当てられたか何かでしょう。屋敷の中の土間になっている部分まで立ち入ることができますが、暗いのに明かりも無く中に展示されている物品はほとんど見ることができません。
この屋敷の前の通りはすっかり普通の住宅地になっていますが、今でもここで「ボロ市」が開かれているそうです。ボロ市、名前は聞いたことがありましたが、ここで行われていたんですね。案内板によるとなんと小田原北条氏時代から400年以上も続く伝統のある市だそうです。
また代官屋敷の奥は世田谷区立郷土資料館になっています。入場無料。早速入場してみました。世田谷の地域の歴史が古い時代から現代に至るまでよくまとまっていると思います。東京に住んでいると、特に車を持っていなくて電車で移動していた私としては、各地域の名前は最寄りの駅名で識別され、どの区・市に属しているかよりも何線の沿線にあるかの方が重要な情報だったので、市区町村の境界ははっきりしていませんでした。地元だと市町村界はいわゆる自然境界で、川や峠になっていて街も途切れ、完全に区分けされているのですが、東京だともはや自然境界だった場所も連続した町並みに埋もれてしまっているのでなおさらです。このため、世田谷という地名は知っていてもそれがどのあたりであるのかはっきりしていませんでしたが、こうして資料館で地図の上にいろいろ並べて見せられると、なるほど世田谷というのは今では京王線、小田急線、東急田園都市線と3本の放射状路線が横断していくけれど、区内相互を結ぶ鉄道は事実上世田谷線くらいしかないということが分かります。玉電のビデオも公開。これもよくまとまっています。しかし世田谷線の旧車両の動画は手に入っても玉電の動画は手に入らなかったのか、玉電の静止画と明治村の車両の動画が頻繁に登場する構成。いやそれでも面白いからいいのですが。
世田谷線で今度は松蔭神社へ。駅からこれも少し歩いたところに松蔭神社があります(写真15、16)。先ほどの世田谷城址公園や郷土資料館からも歩いて来れないことは無い距離です。幕末の思想家吉田松陰を記念して作られた神社ですが、歴史の授業を受けたときにもあまり吉田松陰って印象ないですね。
宮の坂駅の脇に電車が置かれているのを来る時に目撃していたので、そこまで戻ってきました。江ノ電601号だそうです(写真17)。中に入ることも出来るようになっていて、貴志川線に行った時に見た南海電鉄平野線の車両に比べるとはるかに綺麗です(写真18)。なぜ江ノ電の車両がこんなところに、と思いましたが、解説板によるとこの車両はもと玉電の車両だったそうで、中古で江ノ電に渡っていたものが引退した時に戻ってきてここに展示されているのだそうです。なるほど。
この後、F氏の部屋に泊めてもらい、翌日大井川流域へ出発しました。
(その1), (その2)
東急世田谷線(2004年11月19日)(その2) - 旅行日記 - The Special Providence
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