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2007-08-01 台湾旅行2日目 [長年日記]

tDiary 788日目

_ [旅行]台湾旅行2日目

台湾旅行の2日目。今日はまず故宮博物院を見に行くことにしました。故宮博物院は中国歴代王朝の遺した膨大な工芸品・美術品などを保存・展示している博物館で、蒋介石の国民党政権が国共内戦に敗れて中国大陸から台湾に逃げてきた時に、北京の故宮博物院から特に重要とされる品を選んで運び込んできたものです。北京の故宮博物院にも運び出しきれなくて残されたものがあってそちらはそちらで展示されています。きつい言い方をすれば、こちらが厳選された収蔵品で北京のものは残りかすということになります。故宮博物院は台北市の北部にあって、どうやって行くかを検討したのですが結局タクシーを使うという方策は却下されて捷運士林(しりん)站からバスを利用することになりました。

再び南京東路站から捷運木柵線に乗車。忠孝復興站で板南線に乗り換え。さらに台北車站で淡水線に乗り換えて士林站に到着しました。板南線と淡水線はどちらも地下鉄ですが、淡水線の北部では地上に出て、高架線を走行します。もともと台鐵の淡水線があったものを廃止して捷運の軌道に転用したところがあるようです。木柵線の列車

士林站のすぐ北側にある通りに出るとバス停がありました。バス停は停留所名や運行している系統の案内、時刻などの表示よりも広告の方が大きいくらいで、一体何時にどこ行きが来るのかよくわからないという状態。小さな字を丹念に解読して、一体どの系統が故宮博物院へ行くかを突き止めました。士林站から故宮博物院へは複数の系統があるようです。しかしながら、台北のバスは巨大なLED表示で行き先と系統を示しているものの、向きがはっきりしないのでなかなか困りもの。例えば台北車站と故宮博物院を結ぶ304系統のバスがあったとすると、「台北車站304故宮博物院」のように表示されていて、これはどちら方向へ走っている時であっても変わりません。つまり起点と終点のバス停名が常に両方表示されていて、現在どちら向きで走っているかはどちら側の車線をどっちへ走っているかを自分で見て判断しなければなりません。もっとも紙のカードでどちらへ向かっているかを出しているものもありますが。これは初めて訪れた土地などでは不便ではないでしょうか。漢字を読める日本人にならばバス停の表示も解読できますが、そうでない外国人にはバスの利用は難しそうです。LED表示器には小さく英語の表示がされている場合と、漢字と英語の切り替え表示のものがありますが、英語表示が小さいか表示時間が短くて、確認は大変そうです。日本人が漢字を読める利点は存分に発揮できます。また運賃収受の方式が最初はよく理解できなかったのですが、1段収費と2段収費があるようです。1段収費は均一運賃制で乗る時か降りる時に運賃を支払い、どちらであるかは路線によって規定されているようです。乗る時に払う方式は上車収費、降りる時に払う方式は下車収費と呼ぶようです。2段収費は方式が面白く、ドアの向かい側くらいに上車収費と下車収費のランプが設置されていて、乗る時に上車収費のランプが点灯していたら運賃を払い、降りる時に下車収費のランプが点灯していたらやはり運賃を払う、というもの。バスは起点から出発した時点では上車収費のランプが点灯しており、ある地点を過ぎると下車収費のランプに変わります。つまり、上車収費区間から下車収費区間にまたがって乗ると、乗車時と降車時の2回運賃を払うことになり、上車収費区間内、下車収費区間内の乗車の場合は乗車時か降車時のどちらか1回の運賃で済む、というわけ。日本のシステムに慣れている私にとってはなかなか斬新に思われました。もっと長い区間を走るバスで三角運賃表を用意しているものもあるようですが、そのようなバスがどのように収費しているかは謎。今回の旅行で乗車した範囲ではそのようなバスはありませんでした。士林站から故宮博物院へのバスは1段収費の下車収費で15元。中興大業巴士公司というバス会社でした。巴士という字でバスと読ませているようです。

故宮博物院に到着。建物自体も壮麗なものが造られています。入場料は160元。中は撮影禁止なので写真はありません。主な説明書きには中文、英語、日本語の3言語表記が行われていて、個別の説明書きは中英2ヶ国語表記でした。展示物は本来は膨大な量があるのですが、それを全部展示するのは到底無理な話なので3ヶ月おきくらいに内容が入れ替えられるようで、全部を見るためには数年かかるそうです。今展示されている内容を一通り見て回るだけなら3〜4時間くらいあれば足りるようです。私の感想としては「これが中国の王朝が誇る芸術品なのか?」と思われる程度のものもあれば、非常に精巧な工作が行われていることが素人目にも伺えて驚くばかりのものとに分かれます。ピカソの抽象画を高く評価する人は美術専門家とかに多くても、素人にはどこがよいのかさっぱり分からないということがあるかと思いますが、それに似た感じがあります。中国の王朝が公式に編纂した昔の書物などは、綺麗な装飾の装丁に極めて丁寧に書かれた文字でこれも現代の印刷技術に依らないものとしては驚くばかりのものでした。康煕字典体で丁寧に書かれているので、現代の我々にも読むことができてしまいます。むしろ日本の古典で草書や行書で書かれているものの方が現代人には解読が難しいですね。故宮博物院

故宮博物院から再びバスで士林站へ戻ります。前でタクシードライバーが待ち構えていて激しく客引きをしてきました。日本語が話せる運転手だったようで、「捷運の駅に戻ってもまだ台北車站まではお金が掛かるよ。タクシーなら直行で人数がいれば却って安いよ」というのですが、この後の目的地は台北車站ではなく淡水だったのでそういうわけにはいきません。士林站に戻り、淡水線で北上して終点淡水へ。紅30系統@故宮博物院捷運淡水線@士林站

淡水は台北を流れる淡水河の河口付近にある町です。捷運の開通で俄然便利になって観光地として脚光を浴びているようです。もともとオランダ人が砦を構えたことから始まったようで、イギリス領事館が長らく置かれていたそうです。今の淡水は、町の南端付近にある捷運淡水站から北の方にある旧英国領事館(紅毛城)までびっしりと無数の商店が立ち並んでいる町でした。ここで遅めの昼食を取ってから町歩きです。雑貨屋さんなどを覗いて回るのも楽しいものです。ここで中国風の干支の置物を買いました。12体で600元。中国の干支に猪は無く代わりに豚が入っていますが、中国語で豚は猪と書くので表記上は日本の干支と同じに見えます。両側に店が並んでいるメインの通りと、片側は川になっている河畔の通りとあって、両方雰囲気が違っていて往復とも楽しめます。河畔では特設舞台で京劇のイベントも開かれていて楽しいです。淡水の町並み淡水の河畔

紅毛城はかつての砦としての施設と領事館としての施設が残っていて展示されています。中を見学できるのは18時までだそうで、結構ぎりぎりでした。紅毛城からの淡水の眺めは非常に綺麗です。帰りは2km近く捷運淡水站まで歩くのも面倒だったので淡水客運のバスに乗車。上車収費だったのに気付かずにそのまま乗ってしまいましたが運転手さんは特段何も言わず。降りる時に気付いて慌てて運賃を払いました。紅毛城旧英国領事館淡水客運のバス

捷運淡水線で劍潭(けんたん)站まで戻ってきて、士林夜市へ。士林と名前が付いていますが、士林站より劍潭站の方が近いです。駅のホームからもすぐ西側にマーケットが見えます。台北最大の夜市だそうで、活気に満ち溢れていました。まるで日本の夏祭りのような賑わいが毎晩起きているようです。駅のすぐ西側に広がる公設のマーケットは一つの大きな建物に収容されていてその中を主に食べ物の店が開かれています。一方駅の北西側に通りの両側に自然発生的に広がっているマーケットは雑貨や衣服の店が多いですが、食べ物の店も雑多に混ざっています。こちらのマーケットが凄いのは、道の真ん中に堂々と敷物を敷いて商品を並べて売っていたり屋台を出していたりすることです。道の真ん中に出店することは違法らしく、時折警察の手入れがあって商売人の人たちが泡を食って屋台を引いて逃げていきます。人ごみの中を屋台を引いて物凄い勢いで逃げていく様子が笑えます。でも取締の効果は一時的で、またどこからともなく現れて再び道の真ん中に店が現れます。私がジュースを買った店も違法店だったらしくその直後に脱兎のごとく逃げていきました。このジュース、量も多く安くて美味しかったです。屋台で買い食いをする形で今日の夕食は終わりました。非常に安いので昼食代よりだいぶ安くなってしまったくらいです。士林夜市

日本では見かけないような夜市もある一方で、日本にあるのと同じコンビニもそこら中にあるのが台湾。セブンイレブンとファミリーマートがそこら中に展開している一方で、地元資本の店もたくさんあって便利に暮らせます。コンビニは便利商店というようで、そのままですね。日本語表記が溢れていて日本語を話せる人も珍しくない環境で、ここまで都市生活が日本と似通っているところがあるとなれば、日本人が移り住んでも全く不自由しなさそうです。


2007-08-02 台湾旅行3日目 [長年日記]

tDiary 789日目

_ [旅行]台湾旅行3日目

今日はどこへ行くか談合の末、九份(きゅうふん)に行くことになりました。九份はかつて金鉱山で栄えた町で、閉山後は寂れる一方というよくある展開をたどったのですが、「非情城市」という映画で取り上げられてから脚光を浴びて、その昔ながらのたたずまいが評価されて今や休日ともなると台北郊外の格好の観光地として人が押し寄せるようになったのだそうです。さて、九份へ行くには同期が持ってきた観光ガイドブックによると台北車站から台鐵西部縦貫線-宜蘭線で瑞芳車站まで移動し、そこからバスという交通手段になっていました。ついに台鐵に乗れるわけで私としては非常に嬉しいですね。

いつものように捷運に乗ってまずは台北車站に移動。台北車站は割と最近まで地上駅でしたが、さすがに踏切が多数残ったままではただでさえひどい台北の交通渋滞が大変なことになるので、今では地下化されました。1つ東側の松山車站は今のところは地上駅ですが、まさに地下化工事の真っ最中です。台湾(のみならず中国)ではプラットホームのことを月台と呼び、台北車站には全部で4つの月台がありました。しかしながら第1月台と第2月台は台灣高鐵に明け渡してしまい、今では第3月台と第4月台だけを使って運行しています。日本だと各番線に固有の番号を付けるのが普通ですが、台湾では月台の番号に両サイドを示すアルファベットを付けるらしく、第4月台に発着する列車の案内は4A、4Bというやり方で案内されていました。また、日本ではベースとなる運賃を払って乗車券を買い、それに特急や急行に乗る時には追加で料金券を買うというシステムですが、台湾の場合は乗車券そのものの値段が違うというかつての等級制の時代を思わせるようなシステムになっています。一番上のクラスは自強(じきょう)号、次が莒光(きょこう)号、一番下が區間車(くかんしゃ)です。かつては復興号とかいろいろあったようですが、最近の等級整理で3つにまとまったようです。自強号と莒光号は對號(たいごう)列車と呼ばれて優等列車という意味。區間車は不對號列車です。さて、目的の瑞芳車站には自強号が止まるとガイドブックにはあるので、せっかくなので自強号で行こうと乗車券を買います。窓口と自動券売機とあって、自動券売機を使うと簡単に買えるものの券売機では座席指定ができないことが買ってから判明。自強号、莒光号共に全席指定席なのです。座席指定なしで乗車すると自願無座となり、空いている席に座ればよいのですがその席の券を持っている人が来たら譲らなくてはなりません。これは失敗した、帰りにはちゃんと窓口で買おうということになりました。窓口では筆談をしなくてはならないので面倒とついつい自動券売機に行ってしまうのです。台北から瑞芳まではわずか80元。日本円にして300円しないというのは座席指定の特急の運賃とはとても思えません。安いですね。台北車站の改札口

自動改札機の導入されている改札を通り抜けてホームへ。區間車は普通の通勤電車のような車両ですが、自強号、莒光号共にリクライニングシートの装備された快適な車両がやってきて、あまり格差がありません。さて、09時25分の自強号に乗って空いている席に座っていると、駅員さんが「ちょっと切符を見せろ」といった様子でやってきて(この人は日本語も英語も全く通じなかったので身振り手振りで)、乗車券を見せると「お前すぐ降りろ」と大騒ぎ。意味不明なままホームに降りると列車は出発していってしまいました。プラットホームの壁に張り出されている時刻表のところに連れて行かれて、「お前らこれに乗れ」という風のことを言って去っていってしまいました。何だろうとその時刻表を解読してみると、台北から東方面へ出発する對號列車の停車駅一覧になっていて、実は09時25分発の自強号は瑞芳車站には停車しないということが分かりました。しかもよりによって、はるか先の花蓮(かれん)までノンストップの速い自強号で、とんでもないところまで連れて行かれてしまうところでした。同じ自強号でも停車駅が全然違うんですね。確かに瑞芳に停車する自強号もあるのですけど、ガイドブックには列車によって停車駅が違うということは全く警告されていなかったので、全く危ないところでした。遠くに行きそうもない日本人が乗っているぞと思って駅員さんが注意してくれたのでしょうか。

さて、瑞芳車站に次に停車する列車は10時05分発の莒光号まで存在しないということになり、多少の待ちぼうけを食わされることに。自強号の乗車券を買ったのは無駄になってしまいましたが仕方ありません。最初から窓口で買っておけば座席指定ができる上にこうした停車駅のミスも無いのに。こうしている間に09時50分発の自強号がやってきて、これは太魯閣(日本語読みは「たいろかく」かと思いますが、日本でもすっかり「タロコ」という名前の方が定着しています)号でした。見た目はまるまるJR九州885系「白いかもめ」ですが、これは日立からほぼ同型の車両を購入したためです。ドイツのICE3とJR885系がそっくりということも話題になりますが、こちらは同じデザイナーが設計したためだそうで、結局この太魯閣号まで含めて兄弟ということになりますね。太魯閣号というのは台湾東部の太魯閣峡谷という地名から取られた車両の愛称で、種別としてはあくまで自強号。台灣高鐵の開業で台湾西部の主要幹線の需要を奪われる台鐵が東部幹線の輸送に注力するために導入した振り子式車両です。しかしながらまだ本数が少なくて一部の自強号しか置き換えられていません。これを見ることができたのは幸運でしたね。太魯閣号

10時05分の莒光号は大変な混雑で、私が座った席はたまたま誰もやってこなかったため瑞芳車站まで座っていられましたが、ほとんどの自願無座の人は立っていることとなってしまいました。同期が座っていた席には指定券を持った人がやってきて代わりに座ったのですが、その後の駅でまた別な人が同じ席の指定券を持った人がやってきて前の人を立たせて座っていました。何じゃそりゃと思いますが、満席で目的駅までの座席指定ができない場合には途中駅までの座席指定をして残りは自願無座という指定席券の発行の仕方があるそうです。そういえば日本でも一部の区間のみグリーン車にして残りの区間を指定席にするというような変な発券方法ができますね。松山車站のあたりで地上に出て、八堵(はっと)車站で西部縦貫線から宜蘭線に入ります。台湾の主要幹線は西部ですから、東海岸を回る鉄道路線が完成したのは比較的最近のことで、台東のあたりではナローゲージの軽便鉄道だった時代すらあるそうですから、宜蘭線も線路の規格が低いのではないかと懸念していたのですが、どうしてなかなか複線電化の立派な線路が続いていました。それにも関わらず足取りがのんびりしているのは自強号ではないせいなのでしょうか。電気機関車の牽引する客車列車ですしね。

瑞芳車站に到着。ホームから階段に降りるところに改札口があってそこで集札されました。階段から外に出るところはフリー。普通は駅舎の中に地下通路に降りる階段があると思うのですが、瑞芳車站では駅舎に窓口やトイレ、売店などがあるものの、プラットホームへ行く階段は一旦外に出て駅舎の裏側に回らなければならないという謎な構造でした。ここの売店で金瓜石(きんかせき)1日券を購入。金瓜石は九份から一山超えていったところにあるやはり旧金鉱山の町で、九份が鉱山用に栄えた商店街が現在の観光の売り物なのに対して、金瓜石は金鉱山そのものの博物館となっていました。これは台北縣立です。金瓜石1日券は金瓜石の博物館への入館と、瑞芳車站から九份を経由して金瓜石までの区間の基隆(きりゅう)客運のバスに4回乗車がセットになったもの。瑞芳車站-九份、九份-金瓜石を往復すればちょうど4回です。右下に「基隆客運」という文字が入っていて、バスに乗るたびに運転手さんが持っているはさみで1文字ずつ切り落としていくというやり方でカウントしていました。瑞芳車站

瑞芳車站の駅前広場の向かいに止まっていた基隆客運のバスは同じ列車から乗り換えてきた乗客で大混雑。運転席横に立って乗るはめになりました。瑞芳車站からしばらく線路沿いの道を東進し、やがて線路をオーバークロスして北側の山道に入ります。舗装された2車線道路であるものの九十九折できついカーブが続く道。ここをかなりアグレッシブに飛ばしてくれるので、必死にしがみついていなければ飛ばされてしまいます。台湾の人は運転が荒いですね。

九份に到着して下車。瑞芳から随分登ってきて、ここからは遠くに太平洋を望むことができます。斜面に発達した鉱山町というわけです。そこに狭い通りが続いていてその両側にいろいろな店が並んでいました。この商店街が多くの観光客を集めているようです。この雑然とした雰囲気はいかにもアジア圏の町といった感じです。「千と千尋の神隠し」の冒頭で、千尋の両親が屋台に置いてある食事を勝手に食べてしまって豚にされるシーンがありますが、あの屋台の町並みはここをモデルにしたものであるという説があるそうです。確かにそういわれてみればそっくりですね。九份からの景色九份の町並み九份の町並み

これまたガイドブックに乗っていたという1軒のお茶屋さんに入りました。こうやって日本のガイドブックに載せられると日本人観光客が殺到することになるわけで、当たり前のように日本語のメニューと日本語をペラペラ話す店員がいるという次第。ここはお茶とお茶請けの菓子を楽しむ店ということで、甘い和菓子のような食べ物とお茶を頂きました。お茶は独特な淹れ方をしていて、石臼のような変なものがテーブルに載っているなと思ったらジャブジャブお湯をこぼしながら淹れるのでこの石臼様のものでテーブルの下の排水受けに流してしまうものでした。1回の茶葉で5〜6回はお茶を楽しめるそうで、その味の変化を楽しむものだそうです。1回目のお茶からは蜂蜜のような匂いがしてその味との組み合わせが驚きです。別に蜂蜜を添加しているわけではなく、そのような匂いのする種類の茶葉なのだそうです。繰り返しお湯を注いで飲むと、だんだん濃いお茶に変わり、それがまた薄くなっていくという過程が分かり、どれもとても美味しかったです。お茶を飲む

山を越えて金瓜石へ。高さとしては九份も金瓜石も同じくらいのところにあるのではないでしょうか。同じ山の反対側の斜面というイメージでしょうか。こちらからも太平洋を望むことができます。日本統治時代に開発された金鉱山で、日本人社員が住んでいた日本家屋が現在でも残っています。日本時代から戦後に至るまでの金鉱山としての発展の歴史などが博物館で紹介されていて興味深いです。こちらもまた日本語の説明資料もばっちりついていました。本山五坑という坑口からは中に入って見学することもできます(これは金瓜石1日券の範囲外ですが)。また、昭和天皇が皇太子時代に来台した時に宿泊したという建物が残されていました。当時は皇太子が来るとなると大騒ぎだったのでしょうね。日本庭園やミニゴルフ場などまで造営されていました。それが綺麗に保存されているというのも素晴らしいことです。鉱山の一番上の方には金瓜石山神社の跡が残っていました。中では金山神社と案内札が立てられていましたが、当の神社跡に建てられていた台北縣政府が作った案内板では金瓜石山神社となっており、祭神の名前まで(大國主命、金山彦命、猿田彦命)紹介されておりました。何はともあれ神社を建てているのが当時の日本人らしいです。国民党が台湾の主権を回復した後神社は全て破壊されてしまったのですが、鳥居が残っているというのは不思議な感じがします。金瓜石山神社金瓜石の風景金瓜石の入口

金瓜石から瑞芳車站に戻りました。金瓜石へは台北からも直通のバスが運行されていて、それに乗れば乗換なしで楽に戻ることができたのですが、一体どこへ連れて行かれるかわからなかったこともあって瑞芳車站で台鐵に乗り換えることに。後で分かったことですが、基隆客運の台北-金瓜石直行バスは捷運の忠孝復興站のすぐそばから出ているそうで、自分たちの泊まっているホテルのすぐそばから直行で行けるのでした。運賃も台北車站まで出る捷運の運賃まで考え合わせるとバスの方が安いようです。今度は瑞芳車站で窓口で莒光号の指定席券を購入。筆談の準備をしていったのに、日本語を話せる駅員が窓口にいて「台北5人? 17時34分に乗ってね」と言われてしまいました。駅構内にはホッパ貨車と思われる車両がたくさん連なって止まっていて、その末尾には有蓋緩急車と思われる車両も繋がっていました。これは貨車好きとしてはたまらないです。莒光号はまたまた電気機関車牽引の客車列車でした。瑞芳車站には駅弁の立ち売りという日本ではほとんど見られなくなった光景がまだあります。そもそも弁当という習慣自体日本統治時代に台湾に持ち込まれたものですが、列車が駅に着くと早速「ベントー」と声を張り上げていました。中国風イントネーションが付いているので最初は一体何を言っているのだろうと思いましたが、弁当(辨當)であることに気付いて苦笑してしまいました。瑞芳車站に止まっていた貨車莒光号

捷運忠孝復興站から歩いて、牛肉麺の有名な店というところで夕食。なんかやたら日本語を流暢に操る人がいるなと思ったら、ここの店主は日本人だそうです。牛肉麺はうどんのような麺類に牛肉が放り込んであるという料理ですが、これがまた美味しいです。サイドメニューもどれも美味しくで、何を食べても美味しいという店。繁盛しているのも分かります。その後、八徳(はっとく)路にあるマッサージ店へ。台湾に来たからには是非これをやりたいとの希望で、私1人で旅行していたら決して行かないであろう店に行くことになりました。足をごりごりマッサージしてくれます。かなり痛いですが、終わると1日歩き回った疲れがすっかりなくなっていました。マッサージの間、外の八徳路をバンバン金瓜石行きのバスが走っているのが見えて実に皮肉なものです。こんなにたくさんの本数があるんですね。しかも、あの博物館しかないところにこんなに夜遅くこれほどのフリークエンシーを確保して一体何になるというのでしょうか。

明日はいよいよ台湾最終日です。


2007-08-03 台湾旅行4日目 [長年日記]

tDiary 790日目

_ [旅行]台湾旅行4日目

台湾旅行の最終日。今日は12時30分にホテルのロビーに迎えの人がやってくるので、行動できるのは午前中だけです。どこへ行くのか相談して、初日に台北市内を歩いた時に龍山寺から直接中正紀念堂へ歩いていて途中のちょっと北側にあった台灣總統府をスルーしてしまっていたということで、時間もあまり無いのでここへ行くということになりました。ついでにその近くにある二二八和平公園にも行くことに。これらへは捷運淡水線の台大醫院(たいだいいいん)站が近くです。「醫」は「医」の旧字体ですので、台大醫院は台湾大学病院という意味になりますね。この駅から外に出てくるとすぐ脇が二二八和平公園。中に二二八紀念館や國立台灣博物館がありますが、二二八紀念館は10時から開館ということだったので先に總統府を見に行くことにしました。

台灣總統府は、かつて日本統治時代に台灣總督府として建てられた建物で、蒋介石の国民党政権が国共内戦に敗れて台湾に逃れてきてからは国民党政権の本拠地として總統府として使われるようになりました。中華民国のトップは大統領や首相ではなく總統というわけです。日本だと首相官邸に相当する施設ですね。大戦中に米軍の空襲を受けて内部が焼け落ちたものの頑丈だったために構造そのものは残り、戦後に修復を受けて使われているそうです。東京駅も中は焼けても外部が残ったので修理されて使われていますが、似たようなものですね。總統府前の道路は立派な車線の広い道路が走り両側に中華民国の国旗である青天白日満地紅旗がずらっと掲げられていました。さすがに警戒は厳重でそこら中に警官が立っています。しかしながら驚くべきことに、現在の陳水扁(ちんすいへん)總統になってから總統府の国民への公開が行われ、今は平日午前中は誰でも中の見学ができます。日本で首相官邸の見学ができるかというと疑問。事前の予約も何もなしにいきなり行って見学できるというのが驚異的です。早速裏の方へ行ってみます。台灣總統府

總統府の北西側の角(写真の右奥)に見学の入り口があります。自動小銃を構えた兵士が立っていて怖いのですが、普通に列に並んで中に入れてもらえます。空港にあるような金属探知機を使った身体検査があり、台湾人は身分証明書、外国人はパスポートの提示が求められ、一切の手荷物は預けて中に入ることになります。中の写真撮影は禁止でカメラは全て荷物に入れることになります。入館時の注意の立て看版が中国語、英語、日本語で併記されていました。日本語の注意には書かれていませんでしたが、中国語の方には「大陸人士暫時未解放」とありましたので、大陸中国人はまだ見学できないようです。政治的な問題ですかね。

さて中に入ると、グループごとにガイドが付いて一緒に回ることになります。通常見ることができるのは1階だけ。正面の入り口から入って全部を見ることのできる公開日も設けられているそうですが、通常は1階を1周するだけです。ガイドさんはもう80歳にはなっているのではなかろうかというおじいさん。日本統治時代に教育を受けたので日本語はペラペラという人です。1階には日本統治時代から現代に至る台湾の歴史の紹介をするパネルが設置されていて、それを順次見学。私にはなかなかバランスの取れている歴史紹介だと思われました。日本統治時代に関する歴史評価はその人の立場によって大きく異なるわけですが、霧社(むしゃ)事件のように日本の過酷な統治により原住民が蜂起した事件が紹介されている一方で、第4代児玉源太郎總督の元で民生長官として活躍した後藤新平の功績も紹介されていました。後藤新平というと鉄道ファンには鉄道院総裁として日本の鉄道の標準軌への改軌を主張したり、関門トンネルの建設を訴えたりした「後藤の大風呂敷」で知られますが、台湾における上下水道の整備、土地調査事業の推進、産業の育成、教育の普及など台湾発展の基盤を築いた人間としても知られています。ガイドのおじいさんも「私の世代の人間が字を読めるようになったのはこの人のおかげです」と語っていました。八田與一(はったよいち)のダム建設と台南灌漑事業も紹介されていて、「地元の人が銅像を建てたけれど、国民党時代は取り壊しの危険があったから心ある人が隠してしまってシラを切って守り通し、今になってから再び銅像を建てました」とのこと。第2次世界大戦で不足する兵員を補うために台湾の人たちを動員しようとした件に関する文書が展示されているところでは、「私も徴兵されて訓練を受け、マニラに送られることになって最後に1週間の休暇をもらったところで終戦になって助かった」と言っていました。

一方、戦後の中華民国の歴史を紹介するコーナーでは、配られているパンフレットにも展示物にも書かれていないことですが、おじいさんはとても批判的。というのも、日本統治時代に差別を受けて植民地人として育ったので中国へ復帰することになって自分たちも一級国民だと期待していたのに、中国からやってきた人たちがやはり台湾人を奴隷のように扱って支配した、という思いがあるからです。戦後の中華民国總統は蒋中正(蒋介石)(第1代〜第5代)、厳家淦(げんかかん)(第5代、蒋介石の死を受けて副總統から昇格)、蒋経国(しょうけいこく)(第6代〜第7代)、李登輝(りとうき)(第7代〜第9代、蒋経国の死を受けて副總統から昇格)、陳水扁(現職)と続いてくるわけですが、そもそも中華民国の憲法では總統は公選でなければならず再選は1回までと定められているのに、共産党との内戦が続いているからという理由で憲法が停止されて蒋介石の独裁が行われたという経緯があるのだそうです。「蒋介石のハゲ」などと罵倒しておりました。總統府の前の両側に日本時代に造られた噴水があって、蒋介石もやっていた当初は「とても素晴らしい」と褒め称えていたのに、10日後に急に撤去させたとか。誰もその真意を知ることはできなかったけれど、それとなく側近が伺ったところによるとその2本の噴水が白いろうそくに見えたのだとか。中国では通常赤いろうそくを使い、白いろうそくを使うのは葬式の時だけなのだそうです。そのため共産党から逃げてきてビクビクしている蒋介石には自分への葬式のように見えてしまったようだ、などとエピソードを語っていました。アメリカから飢えている中国の子供たちのためにといって多額の援助が送られたのに蒋介石は全部自分のポケットに入れてしまい、激怒したトルーマン大統領が中華民国への支援を打ち切って絶体絶命のピンチに陥ったのに、朝鮮戦争が勃発して共産陣営との対立の関係上中華民国を支援せざるを得なくなり、アメリカ艦隊が台湾海峡を警戒するようになって中共の台湾侵攻ができなくなって九死に一生を得た、などとも語っていました。その後1960年にアイゼンハワー大統領が来台した時の写真では、後ろに写っている蒋介石を指して「自分の立場が磐石になったと思って満面の笑みですよ」などと指摘していました。その後蒋経国總統が「蒋一族から總統を出すのは自分で最後で、以後は公選にする」という文書を出した時にも「そんなことは最初から憲法で決まっていることだ。彼らがそんなことを言っても誰も信じなかった」と批判。国民党支配への恨みは強いようです。現在の陳水扁總統の奥さんは下半身不随で車椅子生活なのですが、これも「民主化を恐れた国民党が自動車事故を装って陳水扁を暗殺しようとして、その身代わりになって奥さんが障碍を負ったというのは周知の事実」とのこと。決してそんなことは公式のパンフレットにも展示物にも書かれていないですけどね。

總統府内には郵便局があって、あらかじめ郵便物を準備しておいて見学に参加してここから出せば、消印に總統府のものが付きますよ、と言われたのですが、さすがにそう準備よく郵便物を手配してあるわけも無く。一番最後に總統府オリジナルグッズの販売がある店へ行き、店員さんがこれまた流暢な日本語で「これは〜元です」と言うとガイドのおじいさんが「圓だ! 元は中国の言い方だ!」とご立腹。確かに台湾のお金をよく見ると元ではなく圓と表記してあるのですけどね。よほど中国が嫌いなようです。總統府を出るところまで案内してもらって、お礼を言うと「是非二二八紀念館も見て行きなさい。また台灣へいらっしゃい。」と言ってにこやかに去って行きました。脇にいた自動小銃を構えた兵士がいかにも「爺さんまた日本人を煽っていたのか」と言わんばかりの苦笑。なかなか貴重な体験でした。

おじいさんのお勧めにしたがって二二八紀念館へ。ここは二二八事件を記念するところです。二二八事件というのは1947年に起きた事件で、戦後国民党が台湾を支配して日本が遺した資産を片っ端から接収し、国家の資産にするのみならず幹部たちが私物化してしまい、台湾人からは収奪する一方で日本時代より生活が苦しくなったということで不満が高じてついに街頭デモとなったのが2月28日。これに対して台湾の長官だった陳儀は一時的に改善を約束してなだめて収めるものの、密かに大陸にいた蒋介石に「台灣人の叛乱」と吹き込んで鎮圧軍を送らせて、翌月から大弾圧が行われました。軍隊が道を歩く台湾人を無差別に殺傷して回るなど、少なく見積もっても犠牲者は12万人に上るとのこと。おじいさんがここを見るように勧めるのもむべなるかなです。こちらでも日本語を話せるおじいさんのガイドが付きました。こちらは日本統治時代に志願して少年飛行兵だったけれど、実際に戦争に行く前に終戦になったという人でした。總統府のガイドさんよりさらに過激な人で、至るところで「国民党は強盗集団、豚ども」「中国人はずるい、反省しない」と罵倒の嵐。そして「明治天皇は偉い人です」といって教育勅語を印刷した紙を配って称揚していました。

展示は、日本統治時代の台湾から始まり、戦争が終わって「光復」の喜び、それが暗転して生活苦と汚職のはびこる時代、ヤミタバコ取締に端を発する衝突、街頭デモとそれに対する弾圧、大虐殺と順を追って紹介されていました。ガイドさんのボルテージは上がる一方で「日本統治時代は汚職なんて無かったのに中国の役人は汚職が仕事だと思っている」「日本人が台灣を宝島に築き上げたのに、中国人が台無しにしてしまった」「台灣の物資を国共内戦のために全部持っていってしまったために大変なインフレになって困窮した」「台灣人は飢えて困窮しているのに中国人は賄賂を取って酒と女の日々」等々。実際に抑圧の時代を体験した人だということですね。台湾では民主化が進んだのは1990年代になってからで、こうしたことを公に話せるようになったのもここ10年くらいなのだとか。日本では民主主義と言論の自由はずっと前から存在していて当たり前のように思われているわけですが、こちらでは実際に抑圧とそれからの解放を経験したわけですから、こちらとは比べ物にならないくらい自由のありがたみが分かるのでしょう。「今でもあちこちで当時の遺体が発掘されているけれど、今になってもまだ犠牲者の総数が分からない。当時加害者になった人たちはまだ生存しているのに、どこに犠牲者を埋めたか教えてくれない。虐殺は日本人がやったことだなどと責任を押し付けて逃げている。1945年に終戦ですぐ日本人は引き上げてしまったのに、1947年に起きた事件が何が日本人のせいですか。」とのこと。貴重な証言なのですが、余り時間が無くて最後まで丁寧に見ていることができなかったのが残念。

昼食を取ってから12時30分ぎりぎりにホテルに戻り、迎えの車に乗って空港まで移動しました。帰りもキャセイパシフィック航空で香港発台北経由関西空港行きの便でした。関空への着陸時にゴーアラウンドを行ってびっくり。私が乗った飛行機が着陸復航したのは初めてのことでした。英語でのアナウンスでは滑走路に障碍があってというようなことを言っていたのですが正確には聞き取れず、その後の日本人搭乗員のアナウンスでは滑走路混雑のために変わっていました。滑走路混雑で着陸復航することはちょっと考えにくいのですけど。

4日間台北近郊だけで見るものはぎっしりで楽しい旅でした。まだまだ台湾には見るものがたくさんありますし、台灣高鐵にも乗っていませんので、また是非台湾に行きたいです。


2007-08-04 ミネソタ橋崩落事故 [長年日記]

tDiary 791日目

_ [科学技術][社会一般]ミネソタ橋崩落事故

私が台湾に旅行している間にアメリカ・ミネソタ州で橋の崩落事故があったそうで。ホテルのテレビでCNNが崩壊した橋の様子を中継しているのを見ていましたが、その時点では詳細はよくわかりませんでした。

橋の崩落というと、韓国ソウルの聖水大橋崩落事故とか、古くはアメリカのタコマナローズ橋とかを思い出します。日本でも最近新潟の朱鷺メッセ連絡通路が崩壊しました。そもそも設計・施工ミスであるもの(タコマナローズ橋と朱鷺メッセがその例、タコマナローズはその当時の技術では振動対策のことが良くわかっていなかったのでミスというよりは無知ですが)とメンテナンスの問題であるものがあるようです。1920年代の好景気の頃に猛烈な勢いでインフラを整備したアメリカでは、その頃に造られた設備の多くが老朽化していて予算不足もあって補修が追いつかず、大変な問題になっているとかなり以前のNHKスペシャルで放送されていました。今回の橋はその頃のものではないようですが、新しく建設するよりもメンテナンスの方がいろいろ頭の痛いところが多いようですね。日本も高度経済成長期に一気にインフラを整備した経緯があるので、そろそろ新規のインフラの整備よりも既存インフラのメンテナンスに重点を切り替えていかないと大変なことになりそうです。


2007-08-05 瀬戸大橋スカイツアー [長年日記]

tDiary 792日目

_ [交通]瀬戸大橋スカイツアー

瀬戸大橋の主塔に登ることができる瀬戸大橋スカイツアーというイベントが公募されているようです。これは興味深いですね。以前もこのようなイベントが開かれていたような記憶があります。10月の週末ですし応募したいものですけど、集合地点が与島PAというところが…。完全に自家用車でやってくることが前提になっていて、公共交通機関でやってくることは想定されていないような気がします。一応、与島PAにバス停があって児島駅などから路線バスでアクセスすることは可能なようですが。一体どうしたものですかね。

オーストラリア・シドニーのハーバーブリッジでは、アーチ橋のアーチ部分を登って一番上まで行くイベントがあるそうです。瀬戸大橋の主塔の場合はエレベータで登るわけですけど、アーチ部分を登っていく場合全て自力で登ることになるわけで、大変でしょうし高いところの怖さはより一層あるように思います。吊橋のケーブル部分を登るとなるとそれ以上に怖いでしょうけれど、さすがにあの部分にはろくな通路は無いと思うので難しそうです。

実は、今日開かれている海上自衛隊呉地方隊の訓練展示イベントへ応募しておいたのですが、落選のはがきが届いてしまって参加できませんでした。立山砂防体験学習会や黒部ルート見学会には1回で当選するなどなかなか運が良い状態が続いていたのに、今回は駄目でした。今回応募したとして上手く当選するでしょうか。


2007-08-06 イラクで供与した銃が19万丁行方不明 [長年日記]

tDiary 793日目

_ [社会一般]イラクで供与した銃が19万丁行方不明

米軍がイラクで治安部隊を育成するために供与した銃が19万丁も行方不明になっているとか。武器管理は治安維持の基本だと思うのですが、一体何をやっているのでしょうか。

まともな国の軍隊や警察なら、保管庫から銃を出す際に数をカウントして記録し、任務を終えた時にはまた保管庫に戻す数をカウントして記録と照らし合わせるという作業をきっちりやっています。軍や警察の任務には銃が必要でしょうが、発展途上国などで管理がきちんとなされていないところだと、しばしば軍や警察の装備品のはずの銃が横流しされてしまって、それが本来軍や警察が維持しなければならない治安を崩壊させてしまうという問題を引き起こしているわけです。したがってまずは軍や警察が銃をきちんと管理するというところから始まるはずなのですけど。以前朝日新聞で連載されていた「カラシニコフ」の記事で、ソマリア領北部のソマリラント自治領で治安を再建するために先進国から派遣された要員が警察に銃管理の基本を教育している話があってとても印象的でした。日本の場合だと、自衛隊は薬莢の1つに至るまで徹底して管理していますからね。

日本の場合、江戸時代の昔から武器管理は徹底しているところが特徴的です。織田信長が長篠の戦いで銃を集中使用して武田軍に勝ったことは歴史の教科書では必ず触れられているところですが、実際には銃の集中使用の概念は同時発生的にヨーロッパでも起きているので世界史的には特筆すべきことではありません。それに対して、豊臣秀吉の時代に刀狩りをして一転して軍縮を進めたことは類を見ないことで、海外の歴史の本でしばしば触れられていることです。江戸時代になると、入鉄砲に出女の管理ということで、各大名がどれだけの鉄砲を持っているのかを厳重に管理していて、今でも歴史研究の参考になるほど詳細な記録が残っているわけです。

今の米軍は江戸時代の日本よりもレベルが低いのでしょうかね。情けないですね。


2007-08-07 越後線運転再開予定 [長年日記]

tDiary 794日目

_ [鉄道]越後線運転再開予定

新潟県中越沖地震で不通になっていた越後線(吉田-柏崎)が10日から運転再開予定とのこと。JR東日本新潟支社のウェブサイトにも掲載済みです。10日以降の時刻表が載っていますが、まだ代行バスと列車の併用で運行するようです。完全に線路が復旧していなければ運転を再開できるはずもないので線路はつながっているはずですが、それにも関わらず元の本数に復せずバスと併用する理由は何でしょうか。速度制限などが付いていて元通りの本数で運行できないとかの事情があるのでしょうか。

残る不通区間は信越本線の柏崎-柿崎。青海川の写真がちょうど交通新聞に掲載されていました。重機を何台も入れて土砂を除去する作業を進めているようですが、写真から見るだけでもまだまだのように見えます。そもそも線路上の土砂を全部除去できたとしても、崩れそうになっている崖の対策をしなければ運行再開は難しそうに思えます。8月一杯の運行再開は難しいとのコメントが付いていました。この区間を通る特急・急行の料金券発売停止も延長されたようです。JR貨物も大変な時期が続きそうですね。


2007-08-08 体調不良 [長年日記]

tDiary 795日目

_ [その他]体調不良

といっても私の体調が悪いわけではありません。会社の先輩が体調が悪いらしく、夏休み明けからずっと出社していなくて、このまま盆休みまで休んでしまいそうです。それも、風邪をひいたとかそういうことではなく精神的なものらしく…。これまで精神的な問題があるとは聞いたことが無かったのですがね。

精神的な症状というのは経験したことのない人間には分かりかねるのでどう対処していいかも分からず困りますね。自分だって会社/学校に行きたくないと思ったことはあっても、それは単に朝寝坊だからであって、本当に行けなくなるほど重い症状になったことはないです。祖父が鬱病になったことがあるものの、当時地元には帰省でしか戻らなかったので「頑張れ、とか励ますのは却って症状によくない」という注意を聞いたくらいで特にどういうものかは分かりませんでした。

大体、外部からの観測可能性の問題があるのが難しいですよね。たいていの病気/怪我ならレントゲンを撮ったり血液検査をしたりすれば、科学的にその病気/怪我であることが証明できるのでしょうけれど、精神症状は結局のところ本人からの問診で医師がこうだと診察してしまえばそれで決まってしまうわけで、本人がうまく受け答えすれば何とでも偽装できてしまいます。刑事裁判で刑事責任能力の有無を巡って毎回争いになるのは結局のところ精神的な問題の証明可能性の問題があるように思うわけで、それって一体科学と言えるのかと感じるところです。

そんなことを考えながらうちの寮のトイレに行ったところ…、人がひっくり返っていました。びっくりして声を掛けてみたのですが、単に酔っ払ってひっくり返っていただけのようです。平日からこれだけ酔っ払っているとは…。酔っ払いは、酔っているということは科学的に挙証可能でも、本人がその事実をなかなか受け入れないことの方が問題ですな(苦笑)。


2007-08-09 帰省準備 [長年日記]

tDiary 796日目

_ [旅行]帰省準備

1週間の夏休みと1週間の盆休みが別々に存在するというのがうちの会社の不思議なところです。先週台湾旅行に行ったのが夏休みで、今週1週間だけ出勤して、また土曜日から休みになります。お盆は実家に帰省する予定。正月に帰省して以来8ヶ月ぶりです。この間に購入してこちらでいろいろいじっていた模型を実家に送ってしまうために、今日は会社から帰ってきてから荷造りをしていました。きちんと緩衝材を入れて壊れないように送ろうとすると、段ボール箱の外形と比べて思ったほどの量が入らないのが難点です。

帰省する時は行き帰りであちこち経由する旅行にするのが通例。今回は九州で唯一未乗で残っていた鉄道である、北九州市の帆柱ケーブルを経由することを前提に考えてみました。帆柱ケーブルを往復した後は日田彦山線に回る予定。田川伊田で田川市石炭・歴史博物館を見に行くか、彦山で降りて町営バスに乗り継いで英彦山神宮*1に参拝するか迷っているところ。英彦山神宮だと山に登ることになるので荷物を抱えていると大変です。最近スロープカーが開通したので随分楽なのは確かですが。時間的に山頂の上宮まで登るのは無理なのは仕方ないです。英彦山神宮はまたの機会に回すことでしょうか。

その後は日田に1泊して、翌日久大本線で大分へ行き、豊肥本線で豊後竹田へ。岡城まで行く時間は残念ながらないので、旅順港閉塞作戦で軍神となった廣瀬中佐を祀る廣瀬神社を参拝してくるつもりです。後は豊肥本線を通り抜けて鹿児島まで。

上りは、来年3月一杯で島原外港以南の廃線が決定した島原鉄道を再乗車するために寄ってくるつもりです。国鉄色に塗装したキハ20の同型車が走っているそうで。トロッコにも乗りたいところ。

なんだかんだで上り下りとも宿泊を伴う旅行にしてしまったので、実家にいられる時間は4日だけになってしまいました。あまり暑くならなければよいのですが。

*1 英彦山と書いて「ひこさん」と読む。JRの駅名には英が付いていない。


2007-08-10 炊き肉 [長年日記]

tDiary 797日目

_ [その他]炊き肉

2005年の11月に会社の飲み会で炊き肉というものを食べに行ったのですが、これに関心を示していた友人がこのほど関西に来たので行ってみました。といっても今度は同じものを食べさせる店が心斎橋にもあるということを知ったので、向こうの出てきやすさを考慮して心斎橋にしました。関西在住のもう1人を誘って3人で行ったのですが、店はガラガラ。こちらが店を出る直前に別な客がやっと入ってきたくらいで、途中までは貸切状態でした。こんな状態で大丈夫なのでしょうか。

味は塚口で食べた時と同じような感じです。焼き肉とかに比べるとベタベタ感が無く、鍋物に近い感じがします。炊き肉と肉を前面に出している割には肉の量が少ないですけど。最後にうどんが出て、さらにおじやまで作るので量的には十分な感じがします。

会社の方でもまた気が向いたら宴会で使うかもしれません。

_ [社会一般]冤罪事件に反省の報告書

最高検察庁が最近冤罪事件が相次いだことについて反省の報告書を出したそうです。しかしながら、これってどうなのよという感じがします。

日本の刑事裁判の有罪率は99%を超えていて、無罪になるのはコンマ以下の割合でしかありません。これに対してアメリカでは有罪率は75%前後なのだそうです(ソースを失念)。このことを指して「日本では起訴されたらまず助からない、最初から有罪が決まっている裁判で問題である」と指摘する向きがあるわけです。そうだとするならば、最近冤罪事件が増えた(無罪判決が出る裁判が増えた)のは、裁判所がきちんと証拠を調べて「疑わしきしきは被告人に有利に」の原則を徹底するようになってきたということであり、むしろ喜ばしいことではないのかと思うわけです。もちろん検察としては起訴したものは100%有罪を目指すのが筋であれば、そうなっていない現状を反省するのは自然ということはあるかもしれませんが。

やはりこういう反省が求められてしまう背景には、日本では警察や行政に無謬性を求めてしまって、1つでも誤りがあったら大騒ぎをして非難する傾向があるというところと無関係ではないのでしょう。人間がやっている以上間違いが無いことはありえないのですけど、間違いが無いことを求めてしまうというのは、日本人の子供じみた性格の表れのような気がします。もっともそのおかげで世界に冠たる高い品質の工業製品を送り出す原動力にもなっているように思われます。1個でも不良品があったら大騒ぎをして、不良品率0というありえない数値を目指して飽くなき追究をしてしまうのはそういう心性が無ければ説明できない気がします。私としてはこのような態度は行きすぎだと思うので、刑事裁判にもある程度の無罪率は許容した方がよいと考えているところです。もっとも、日本では警察に逮捕された時点で犯人確定扱いされてしまって、後で裁判で無罪を勝ち取っても回復しようのない被害が発生してしまっているという別な問題もあるのですけど。

日本の警察/検察の名誉のために言っておくと、警察が逮捕してきた人間は原則起訴してしまうアメリカと、警察が逮捕してきた人間の証拠をさらに詳しく取り調べて、微罪だったり裁判で有罪に持ち込めるだけの証拠がないと判断されたりした容疑者は検察段階でどんどん釈放してしまう日本で、刑事裁判の有罪率をそのまま比較してもしょうがないというのが実情です。日本では裁判での有罪率100%が求められて、1件でも無罪を出してしまうと検察官としての評価に影響するというところから、逆に証拠があやふやな難しい事件は起訴猶予にしてしまう傾向があるのだとか。逮捕された人間全体に対する有罪率はアメリカと日本で大差ないと聞いています。また、そもそも日本では被告人が罪状を否認して罪があるかどうかそのものについて裁判で争うケースが少ないのだそうで、そういうケースに限ると無罪率はぐっと上がるそうです。法制度は各国でかなり異なっている(アメリカは英米法体系なのに対して日本は大陸法体系ですし)ので、単純に比較してはいけないという話ですね。


2007-08-11 帰省下り1日目 [長年日記]

tDiary 798日目

_ [旅行][鉄道]帰省下り1日目

盆休みに入って地元への帰途に。朝早くの電車で新大阪に移動して、始発の「ひかりレールスター」で小倉へ移動しました。帰省ラッシュのピークらしく大混雑で、自由席車だけでは自由席券の乗客を捌ききれず、車掌が指定席車のデッキや通路にまで誘導して乗せていました。駅を進むごとに遅れが累積していくような状態でした。

小倉で在来線に乗り換えて八幡で下車。ここから南の方へ歩いて今回の目的である帆柱ケーブルへ。北九州市の中心近くにそびえる皿倉山に登るケーブルカーです。朝10時から運転開始なのでそれに合わせて駅から歩いていきました。11時になると駅から無料送迎バスがあるのですが、10時台はないため歩き。距離は大したことないのですけど、途中からきつい登りになって暑い中結構大変でした。駅から20分でケーブルカーの駅まで歩くのはかなり大変。ケーブルカーの駅のすぐ目の前を北九州都市高速が走っており、高速帆柱ケーブルバス停なるものが設置されていました。バスで来たら便利だったのですかね。駅にたどり着くとすぐに10時の始発のケーブルカーに乗って動き出しました。ここでもまたスイスCWA社製造の車両が活躍。最近車両を入れ替えたそうです。山上駅に着いてもまだそこから先が少し歩いて登らなければなりません。もともと山上駅から山頂展望台まあでリフトがあったのだそうですけど、今は撤去されて代わりにスロープカーを設置する工事中。既に線路や車両は見えていたので、もうすぐスロープカーも開業するのでしょう。

山頂は北九州市の中心部にそびえている山で手ごろなためかテレビ局の中継アンテナが林立していました。ここまで一箇所に固まって大きな中継局が林立しているのも珍しい気がします。山頂のレストランなどがあるところは現在工事中のため閉鎖されていて、奥の方にある展望台から下を眺めました。展望台からは北九州市のほぼ全域を見渡すことができます。自然の景観が綺麗なところもいいのですが、ここのように人工の市街地がずっと見渡せるところもまた素晴らしいです。すぐ目の前には八幡の製鉄関係の工場が立ち並ぶ洞海湾、東の方には船が頻繁に行き交う関門海峡を見ることができました。テレビ中継局洞海湾方向関門海峡方向

ケーブルカーでまた下に降りてきて、そこから駅まで歩いて戻ります。帰りは下りなので楽です。駅のすぐ前にあったちゃんぽん屋さんで昼食。ちゃんぽんにカツが載っているというもので、カツもちゃんぽん自体もなかなか美味しいものでした。

小倉を経由して日田彦山線で田川伊田へ。駅の裏手にある田川市石炭・歴史博物館を見に行きました。すぐ脇にかつての竪坑の跡が残っています。炭車や人車、それに各種の坑道用機関車が野外展示されていました。パンタグラフ式の電気機関車やバッテリーロコ、圧縮空気をタンクに蓄えてその力で走るエアーロコなどはこれまでも見たことがありましたが、リールから電線を繰り出す方式の電気機関車は初めて見ました。掃除機からコードを繰り出しながら進んでいくのと似たような感じでしょうか。同じ線路に複数の車両を走らせたら間違いなく絡まるでしょうし、戻る時に正確に同じ線路を走らなければまた絡まりそうで、なかなか厄介な機関車に思えます。架線を張る必要がなく充電の必要もないというのは理解できますが、却って面倒ではないのでしょうか。

各時代の炭鉱住宅を復元してあるのが面白かったです。炭鉱住宅というと必要最小限の長屋という印象ですが、これでも時代と共に質的に格段の進歩を遂げてきたのだということがここを見ると分かります。明治時代の初期には1つの部屋はわずか3畳だったそうで、これに小さな押入れと土間。天井板がなくて直接屋根がむき出しなので夏は暑く冬は寒そうです。窓は板がはめてあるので、閉じると光を取り入れることができません。台所は土間ではなく外に設置されていたとか。さすがに狭すぎたのかやがて4畳半が標準になったとか。そして大正期になると台所が土間に入り冬季の炊事が格段に楽になったそうです。窓にもガラスや障子が入ったようです。そして昭和になるとさらに進歩を遂げて4畳半が2部屋になり、台所も電化やガス化が一部行われて天井板も標準になりました。こうしてみると生活水準は時代と共に確実に進歩していますね。今の私には昭和の部屋でも住めそうには思えませんでしたが。

今日は日田彦山線を南下して日田で宿泊。明日は鹿児島までほとんど普通列車で移動するのですが、18きっぷではなく普通乗車券を使用予定。JR九州の若者向け割引カード「ナイスゴーイングカード」を持ってくるのを忘れてしまったので、その場で再度入会して3割引の乗車券を入手しました。駅員さんが間違ってJR九州マイウェイクラブの割引を適用した乗車券を出してしまっていましたが…。それは若年者向けではなくシニア向けの割引サービスです(苦笑)。


2007-08-12 帰省下り2日目 [長年日記]

tDiary 799日目

_ [旅行][鉄道]帰省下り2日目

朝早く、日田から出発。07時18分の始発の大分行き普通列車はキハ125形でした。新潟トランシス製軽量気動車をJR九州も導入したというもので、主に久大本線で見かける車両ですね。昨日はキハ220形にも乗れたので、JR九州の所有する車両で乗れていなかったものをだいぶ消化できました。それにしても形式が謎。JRになってから製造した気動車は、四国みたいに全く異なる付番ルールを採用したところと東海みたいに国鉄ルールを遵守しているところを除けば、キハ100(東)、110(東)、120(西)、130(北)、150(北)、160(北)、200(九)、220(九)などとおおむね2桁の数字+1の位に0というものになっているわけですが、このキハ125というのはいかにも中途半端な付番です。キハ140が飛ばされているように見えますが、これは国鉄時代の気動車キハ40のエンジン改良バージョンで100を加算してキハ140にしたものがあるからでしょう。同様に急行「宗谷」などに使われていたキハ40改良車にはキハ400というのもいましたが。北海道にはキハ201というJRになってからの新造気動車もいて付番ルールは全く理解できません。キハ125形

久大本線を東進し、対向列車待ち合わせのために豊後森でしばらく停車。久大本線の中央付近では日田が拠点になっていて車両の留置などが行われているものの、ここ豊後森も日田から比較的近い割にはかつて拠点としての役割がありました。隣の恵良から宮原線が分岐していた(宮原線の列車は全列車豊後森発着)ことも関係しているのでしょう。構内の東側の外れにはいまでも扇形機関庫が残存しています。天竜浜名湖鉄道の遠州二俣駅にあるものは今でも現役で使われているところが凄いのですが、こちらは既に使用停止されてボロボロ。しかし今まで残っていたのが素晴らしいことで、今後は文化財として保存されるようです。できれば下車して一度周りを歩いてみたいもの。表側は構内なので勝手に立ち入って歩くわけにはいきませんが。豊後森扇形機関庫

大分で乗り換え。大分駅は高架化工事が着々と進展していて、裏の車両基地の跡に続々と高架橋の橋脚が生えてきていました。ここで豊肥本線の列車に乗り換えて豊後竹田へ。滝廉太郎の「荒城の月」のモデルになった岡城の城下町。駅に列車が着くと「荒城の月」の曲がホームに掛かりますが、これはどうも自動ではなく駅員さんが手動で列車のタイミングを見て音楽をスタートしているようです。ここで1時間ちょっと余裕があったので昼食を兼ねて町を歩きます。豊後竹田駅

豊後竹田は盆地になっていて、この中は駅から徒歩で十分歩けるくらいの小さな町。南側の山すそに武家屋敷が残っていてこれを見に行きます。通りの両側に白壁が並んでいる地区はほんの短く、やはり藩の規模もかなり小さかったようですね。1箇所大きな長屋門が残っていました。そこから東の方へ歩いていって廣瀬神社へ。写真の左側のトンネルを抜けると岡城の方へ行きます。鳥居の手前左側に立っている胸像が廣瀬武夫中佐。日露戦争の旅順港閉塞作戦に参加していて、船内で行方不明になった部下(杉野兵曹長)を探していて、敵弾が命中して亡くなりました。部下想いの上官ということで日本初の軍神扱いになってここに祀られているわけです。豊後竹田が廣瀬中佐の出身地だとか。戦前は東京万世橋駅前にも杉野兵曹長とセットで銅像が立っていたそうですが、GHQの命令で撤去されてしまったそうです。社務所にも常時人が詰めていて拝殿も大きく、結構びっくり。もっと小ぢんまりとした神社かと思っていました。境内に廣瀬記念館なるものまであって、時間が無くて中を見られなかったのがとても残念。終戦時の陸軍大臣阿南惟幾(これちか)陸軍大将(終戦日に自刃)も豊後竹田出身だそうで、境内にその碑も立っていました。阿南大将の経歴が彫られていて、任命と補職をきちんと使い分けて書いてある*1のはさすがなのですけど、陸軍次官と陸軍大臣に就任したところに「任」が使われているのは謎。補職という言葉を使うのは軍令系に限定していて、軍政系の職の場合は任命なのでしょうか? 豊後竹田は他にも見るところがいろいろあって、また是非来たいところです。古田家仲間長屋門廣瀬神社鳥居廣瀬神社拝殿豊後竹田の町並み

豊後竹田駅に戻り、さらに豊肥本線で西へ移動します。豊後竹田-宮地間は熊本・大分県境に掛かる区間で特に列車本数が少なく、普通列車での移動が困難であったため特急を利用しました。キハ185系の特急「九州横断特急」です。3両編成の特急で結構乗っていました。阿蘇山の外輪山の内側に入った宮地でまた普通列車に乗り換え。ここでもキハ200が使われていて、だいぶローカル線にも新型車両が普及してきています。鹿児島の非電化路線はまだまだキハ40/47ばかりなのですけど。キハ40/47は出力不足のエンジンと鈍重な車体の組み合わせで、起動時に轟然と音を立てながらゆっくりゆっくり加速していくという感じなのに対して、キハ200は電車のように軽快に素早く加速していって、初めて乗った時はこれがディーゼルなのかと驚いたものです。宮地駅の側線にはキハ58/28改装のイベント列車「あそ1962」が停車中。レタリングだらけの車体がいかにもJR九州テイストです。九州横断特急あそ1962

立野スイッチバックを通って肥後大津で815系電車に乗り換え。熊本からは「リレーつばめ」「つばめ」に乗って帰ってきました。帰省ラッシュで自由席は激しく混雑していました。なかなか楽しい旅でした。

*1 任命は軍人を階級に就けること。たとえば陸軍大将になったことを「任陸軍大将」と表記。補職は軍人をポストに就けること。たとえば師団長になったことを「補第百九師団長」のように表記。


2007-08-13 パズル [長年日記]

tDiary 800日目

_ [その他]パズル

実家に帰ってきたら、「イラストロジック」とか「お絵かきロジック」と呼ばれるパズルの雑誌が置いてありました。Wikipediaの「お絵かきロジック」の説明。暇つぶしには面白いパズルですけど、大きな問題だと解くのにかなりの時間が掛かってついつい他の大事なことが先延ばしになってしまうのが問題。鉛筆で塗りつぶしていくと右手の下の辺りが黒くなってしまいます。

ちょこっとGoogleで検索してみると、やはりこれを解くためのソフトウェアとかが存在しているようですね。また手作業で解くのを支援してくれる(鉛筆で塗りつぶしていくのではなく、画面上の升目をクリックして塗っていく)ソフトウェアもあります。やはりご時世というかウェブアプリが多くて、こちらのサイトなどではJavaスクリプトでブラウザ上で解くことのできる問題が提供されているようです。私はどうしてもローカルマシン上で実行するプログラムを考えてしまうのですけどね。ウェブアプリの方がユーザインタフェースを設計する手間が楽なのでしょうか。

どちらかというとPCで自動で解くアルゴリズムを考案する方が楽しそうです。しかしながら、アルゴリズム本体ならば比較的簡単にできても、きちんとしたユーザインタフェースまで付けるとかなり大掛かりなプログラムとなってしまって作るとかなり手間が掛かりそうです。いつも仕事で書いているプログラムに比べるとはるかに小規模なものではあるのですけど。プログラムを使うと、人間が手作業で解く時には使えないような大規模な仮定法が使えるので楽ですね。1箇所が黒ますであると仮定して進めてみて、矛盾が出たら白ますであると確定する、というようなやり方は、手作業でやっている時は大幅手戻りが発生してその時にどこまで消せばよいのかが分からなくなるという問題がありますが、プログラムで処理するならば局面のコピーを作ってスタックに積んでおき、バックトラックするだけですからね。メモリの限界まで試行錯誤を試すこともできます。

まぁ、そういいつつ手を真っ黒にしながら2問解いてしまいました…。時間の無駄ですね。


2007-08-14 インドに高速貨物鉄道新線建設 [長年日記]

tDiary 801日目

_ [鉄道][交通]インドに高速貨物鉄道新線建設

インドでムンバイ(ボンベイ)-デリー-コルカタ(カルカッタ)を結ぶ高速貨物鉄道の建設が決まって、日本が円借款を提供することが決まりそうだという話。前々からこういう鉄道の計画があるらしいという話は聞いていましたが、本決まりのようです。ただ、以前聞いたところではこれにチェンナイ(マドラス)がネットワークに加わっていたのですが。

インドの4大都市は、インド半島北部にあって首都のデリー、西海岸のアラビア海に面するところにあるムンバイ、東海岸のベンガル湾に面するところにあるコルカタ、そして半島の先の方の東海岸にあるチェンナイです。インドの鉄道輸送の大半はこの4大都市相互間の輸送によるものだそうで、4都市を結ぶ四角形とその対角線の合計6本が重要幹線だという話でした。そのため高速貨物鉄道計画もこれらを同時にやるという話だったように思うのですが、お金がないのか2本だけ先行するようですね。

もともと4大都市のうち3都市は海岸沿いにあるので、鉄道で運ばなくても船舶輸送で十分な気がします。もっともムンバイ-コルカタの輸送は半島を大回りすることになるので時間が掛かりすぎますが。そのため半島先端にあって船が利用しやすい位置ということでチェンナイが最初の計画から外れたのかもしれません。デリーは船舶輸送がまずできない(河川による船舶輸送ができる可能性もなくはないですが)ので、最初の計画に入るのは自然ですね。

内陸だと船舶輸送が使用できないのは当たり前、というのは日本の常識であって、世界の常識ではないですね。ヨーロッパでは河川と張り巡らされた運河を使ってかなり内陸の都市であっても大型の船舶が直接入ってきます。北海と黒海の間もライン川から遡行して支流のマイン川からマイン-ドナウ運河でドナウ川に抜けて下ってくれば、地中海を回ることなく移動できます。ドイツ国内の運河ネットワークはかなり凄くて、運河と川の立体交差まであるところがさすがドイツです。探したら写真がありますね。ミッテルラント運河とヴェーザー川の立体交差だそうです。その他の国でもロシアはバレンツ海-バルト海-黒海-カスピ海の間を内陸経由で相互移動できてモスクワには3000トン級の貨物船が入港できるとか。アメリカも五大湖とミシシッピ川を経由して割と内陸航路が発達しています。島国で船舶は事実上海運に限られてしまい、貨物輸送の多くはトラック輸送になってしまっている日本は、趣味的に見るとつまらないですね。


2007-08-15 東武鉄道レール歪む [長年日記]

tDiary 802日目

_ [鉄道]東武鉄道レール歪む

東上線で暑さでレールが歪んで一時運休になる事件があったようですね。外側に5cmも膨らんでいるとなるとかなりの歪みで、脱線してもおかしくないですね。

数年前に猛暑の年に北海道で線路の歪みが多発して、あちこちで運休や減速運転が相次ぎ、急遽レール冷却のための散水車が作られて走り回るといったことがありました。あの時の説明では、北海道では冬の寒さによるレール収縮を考えて線路の継ぎ目に隙間を余り入れてない(元の隙間が大きいと収縮した時に隙間が限度を超えて大きくなってしまう)ので、夏の猛暑の時に伸びしろが足りなかったようだ、ということでした。元々北海道でそれほど暑くなるということが想定されていなかったのでしょう。今年は北海道でも猛暑だそうですが、また散水車でも走り回っているのでしょうか。


2007-08-16 大隅線鉄道記念館探訪/鹿屋航空史料館訪問 [長年日記]

tDiary 803日目

_ [旅行][鉄道][軍事]大隅線鉄道記念館探訪/鹿屋航空史料館訪問

今日はガソリン高騰の最中に親の車を持ち出して大隈半島にドライブに出かけてしまいました。1人で車で移動するのは本当に不経済かつ環境上問題がありますが、公共交通があまりに不便なところを訪問するので致し方ありません。なお、私は平成の大合併以前に地元を離れた人間で、大合併以後の市町村名では全く土地勘がなくなるので、以下の本文では基本的に大合併以前の市町村名を記述しています。

実家のある姶良を出発し、国道10号線で東進。国分で国道220号線に入って鹿児島湾沿いに南下します。鹿児島湾北部ははるか昔に姶良火山という大きな火山が大噴火してできたカルデラに海水が流れ込んでできた地形であり、湾の周辺はカルデラの外輪山に相当していて湾の周囲には平地が少なくなっています。まさに山が海に迫る地形で海岸は崖のようになっています。そのへりのところを道路が通り、またわずかに開けた平地に集落がへばりついているというような地域です。ことに湾東部の福山などはどこに平地があるのだろうかというような地形。かつて国道220号線と並行して国鉄大隈線が走っていましたが、特定地方交通線となって昭和62年に廃止となりました。今回のドライブの目的はこの大隅線の駅跡の探索が主なところです。私も両親の言によれば1度は大隅線に乗ったことがあるそうなのですが、あまりに幼かった頃で全く記憶がありません。しかしながら国分に親戚が住んでいて、そこに訪問した折などに神社の下を走っている大隅線を見たり、金剛寺駅(国分から1駅目)の簡素なプラットホームを見たりしていました。大隅半島と鹿児島県都を結ぶ路線と考えるならば大隅線は国分側が先に開通していなければおかしいわけですが、実際には大隅半島の中心都市鹿屋のあたりが先に開通し、志布志側で他の国鉄線との連絡ができ、最後に国分に伸びてきたという経緯になっています。国分までの延長は鉄道公団線で、国分まで開通してわずか15年で廃止になってしまったという、公団線としてはあちこちに転がっている例です。これは上述のように鹿児島湾東部が地形的に厳しかったこと、大隅半島と鹿児島市を結ぶには鹿児島湾を船で横断するのが最短で、鉄道が余り必要とされていなかったことなどがあるでしょう。実際鉄道が開通しても、あまりに開通時期が遅すぎて車社会が定着してしまっていたことに加えて、所要時間面で鹿児島湾を横断する船に全く勝てなかったことがあって利用客はあまりいませんでした。最後の延長区間になった海潟温泉-国分間は現代土木技術を投入して造られた公団線であるためほとんど踏切はなく、道路の少し山手側をほとんど築堤と高架橋とトンネルの連続で通っていました。このためこの区間に関しては、脇の国道220号線を走っていても随所に築堤や高架橋が見えていて廃線跡としては非常によく残っています。撤去する必要があまりないということもあるのでしょう。

桜島の近くまで南下してきて、道の駅たるみずに寄り道。ここは長い足湯を作ったというのを売りにしていて、確かに長かったですね。盆の時期ということもあってか多くの人が来訪していて、実際に足湯を使っていました。なお、この敷地は戦時中に海軍航空隊が水上機の基地を設置していた場所にあたるのだそうで、道の駅の一番南側の端にそれを記念する石碑が立っていました。水上機(水面から発着する飛行機)なので滑走路は不要なわけですね。

ここからさらに南下すると桜島が大隅半島に接触している桜島口のあたりに出ます。大正時代の桜島の大噴火で流れ出した溶岩により桜島と大隅半島の間の海峡が埋められて陸続きになったという場所。地形的に不安定(もともと鹿児島のほとんどの地域は前述の姶良火山大噴火で流れ出した火砕流によって形成されたシラス台地なので非常にがけ崩れがおきやすいです)で、大雨が降るとすぐに通行止になる箇所です。このためこれを抜本的に改良しようと現在橋を建設中。桜島口の少し北側で大隅半島と桜島の間に橋を掛けてしまい、桜島島内を通って南側で再び元の道路に戻すという方法で、崖崩れ常襲地帯を迂回するという工事です。今日脇を通りかかったところ既に橋脚は立ち上がっていて、中間の橋桁を待つのみといった状況。ちょうど今日鹿児島市で組み立てていた橋桁本体の輸送作業が始まったそうです。どこかに車を止めて写真を撮ればよかったのですが、ちょうどよい駐車場所が見当たりませんでした。残念。桜島口の南側も陸地からちょっと離れた湾内に海岸線と平行方向に橋を掛けて崖崩れ常襲地帯を回避するようになっていて、こちらは供用済みです。

さて、垂水(not たるみ but たるみず)の市街地に入ってまず垂水駅跡へ。地図で大体場所の見当をつけてあり、迷わずまっすぐたどり着くことができました。Mapion 垂水駅跡の鉄道記念公園。駅のあった場所と道路を挟んで北側に駐車場もあって便利。駐車場の脇のところに車輪が2つと石碑がありました。駅があったと思われる場所は児童遊園になっていて、その遊具が鉄道を想起させるようなものになっていました。ホームと若干のレール、それに信号機などが置かれていましたが、車両の類はなし。このホームも現役当時そのままなのか疑問のあるところです。垂水駅跡鉄道記念公園

垂水からさらに南下。古江に到着。国道をそのまま走ると鹿屋方面へ直行してしまいますが、佐多の方へ行く県道の折れるとすぐ古江駅の跡にたどりつきます。Mapion 古江鉄道記念公園。こちらは駅舎がそのまま残っているようです。ただし中には入れず。線路側には駅舎に面するあたりの一部のホームとレールが残存していました。しかしほとんどの敷地は広大な芝生になっていて、車輪が1個レール上に固定されている他は車両などはなしでした。古江鉄道記念公園

古江からさらに県道を南下。古江駅跡から明らかに線路跡と分かる道が南下して県道の下をくぐりトンネルを通って県道のすぐ東側に出てきます。ここになんと遠方信号機の残骸が柱についたままの状態で残っていました。古江駅の場内信号機の遠方でしょうね。古江駅より南側は開通時期がかなり古いため公団線のように目立つ形ではないものの、築堤などの形で確実に道路脇に伸びていました。高須まで南下するとくるっと向きを変えて内陸に向かうので、これを追ってこちらも国道269号線へ。実は、この線路を最初に建設した時の目的は、大隅半島の中心都市鹿屋を海岸と結びつけて船と連絡するというものでした。このため鹿屋から鹿児島湾に面した港である古江を結ぶことが計画されたのですが、古江へ直行するだけの建設費が捻出できず距離が短くなる高須で海岸に出るように変更して、まず鹿屋-高須を建設したと聞いています。その後高須から古江へ伸ばして当初の目的を達成したのですけど、結果的に見れば国道220号線に沿って鉄道を延ばせば距離が短かったのに、高須を経由することで無駄に三角形の二辺を回ることになってしまいました。高須では丹念に探さなかったので駅跡は分かりませんでしたが、県道の上を今も堂々と大隅線のコンクリート製架道橋が横断していました。

国道269号線で鹿屋へ。ここで鉄道跡探索を離れて海上自衛隊鹿屋航空基地に併設されている鹿屋航空史料館を見に行きました。この施設は小学生の時に一度見た覚えがありますが、その時はまだ現在のような立派な施設ではなかったように思います。だいぶ施設が拡充されたようですね。野外に海上自衛隊で使用された多くの航空機が展示されていました。練習機などまで含めてあまりに多いので2機だけ写真を掲載。左がP2V対潜哨戒機、右がP2J対潜哨戒機です。どちらもP2なので大まかな形は似ていますね。S2「トラッカー」艦載対潜哨戒機も置いてありました。そういえば空母を持たない日本なのに一時期対潜哨戒機として艦載機を使っていましたね。二式飛行大艇(これは旧海軍の機体)が置いてあり、これって船の科学館にも置いてあったよなと思って説明版を読むと、船の科学館からこちらに引き渡されたものだそうです。私が船の科学館で見た機体と同一のものだったようです。史料館では2階に旧海軍の歴史を、1階に海上自衛隊の歴史を展示していました。鹿屋も特攻機出撃基地となったので、知覧の特攻平和会館のように特攻隊員の遺書展示が行われていました。P2VP2J

昼食を取ってから鹿屋市役所脇にある鹿屋鉄道記念館へ。現在の鹿屋市役所は大隅線廃止後に鹿屋駅跡地に建てられたものだそうで、市役所脇に記念館があるのも当然ですね。場所によっては駅跡は探索しづらくなっているわけですが、ここだと市役所を目印に行けばすぐに見つけることができます。また、ここはきちんと記念館が開館しており人も詰めていました。ただし月曜日は休館とのこと。中にはどこの記念館にもあるような現役当時の時刻表や運賃表、タブレット、廃止当時の新聞記事の切り抜きなどといった展示。大隅線関連の展示では最も充実しているでしょう。さすがに大隅半島の中心都市鹿屋だけのことはあります。面白かったのが、様々な駅名の入ったスタンプが展示品にあったこと。今のように印刷発券機が普通になる前は、印刷済みの乗車券が常備されていない区間の乗車券の購入があると手書きで作成していましたが、よくある駅名に付いてはスタンプが用意してあるものでした。したがって鹿屋駅のスタンプであるのならば、近隣の駅は常備の印刷済み乗車券があるとしても、たとえば博多とか熊本とか、九州内の有力な駅や東京・大阪などがあってしかるべきです。しかしながらここに展示されていたものは四条畷、川西池田、熱田、武蔵境とそんな駅への乗車券がそんなに売れるのか? というものばかり。はては神戸電鉄(社)鈴蘭台、近畿日本(社)瓢箪山、西武(社)石神井公園といった駅名が…。まぁ、乗車券に押すには大きすぎるスタンプだったので、おそらく貨物の車票に押すか荷物輸送の荷札に使うスタンプだと思われ、鹿屋に立地している企業のよく使う送り先がスタンプになっているのだと想像します。横浜羽沢、汐留、隅田川といった貨物専用駅のスタンプがある時点で乗車券用ではないのはわかります。しかしながら、昔は国鉄と貨物のやり取りがあった西武池袋線の石神井公園はともかく、神戸電鉄鈴蘭台とか、そもそも標準軌区間で貨車の受け渡しなどできない近鉄奈良線の瓢箪山とかは一体何のためにあるスタンプなのでしょうか。ここは模型の展示もしてあって、おそらく走らせることができる状態ではないと思いますがかなりのレイアウトと車両が置かれていました。全く大隅線と関連性があるとは思われない車両ばかりでしたけど。外側には保線用の軌道自転車らしきものとキハ20が1両展示。キハ20の中で大隅線写真展が開催されていました。なお、記念館は廃線後に駅と無関係に建て直されたもので、キハ20の置いてある場所も元ホームなどとは全く関係がなく向きも元線路とは違うようです。線路跡はサイクリングロードになっているので容易に判明します。鹿屋鉄道記念館キハ20

鹿屋駅付近は180度のカーブがあったことでも知られます。これはもともと鹿屋駅がスイッチバック構造であったのを無理やりループにして繋いでしまったために生じたもので、現在の地図でも鹿屋市役所の周りの道路にその痕跡を見ることができます。Mapion 鹿屋市役所周辺。最初に鹿屋から高須までの鉄道を建設したことは上述の通りですが、その後鹿屋から東へ線路を延ばした時にスイッチバックとなり、それを解消するためにループを造ったわけです。まるで地図上では鹿屋航空基地を回避するために迂回しているかのように見えますが、実際には鉄道の方が先にあって航空基地を後から造ったので基地の影響ではないと思います。鹿屋駅を市街地にできるだけ近づけようとして、なおかつ高須への建設を考えると現在の位置になって、その後の東への延伸に際してスイッチバックになってしまったのではないかと想像。最初から古江へ直行していれば基地の北側を回って国道220号線沿いにまっすぐな線路になっていたのではないでしょうか。

その後県道を南東方向へ走行。無意味に陸橋になっている箇所などに大隅線の痕跡を感じます。吾平(あいら)に入り吾平駅の跡へ。吾平をあいらと読ませるとはかなりの難読であり、しかも私の地元の姶良もあいらと読むので、今は吾平は鹿屋市に合併してしまったとはいえ同じ読みの町が同じ県に2つあったわけです。しかもややこしいことに吾平には姶良川という川もあって、実は吾平駅も昔は姶良駅だった時代があるなどかなり混乱を誘うような状態があります。現在は日豊本線に姶良駅がJR化後の新駅として存在しているわけですが。このあたり、なぜ吾平と姶良の地名が錯綜しているのか、調べたことがなく不明です。吾平駅跡は吾平の中心部からはかなり北にあって、現在の駅跡周辺も団地があるくらいであまりぱっとしたところはありませんでした。Mapion 吾平駅跡。ここには立派な鉄道記念館が建っている(わざわざ新築したらしい)にも関わらず、経費削減で常駐職員がいなくなって「見たければ電話して呼べ」というよくある状態。大隅線が走っていた当時のビデオが見られるらしいとの情報があるものの、わざわざ電話して呼んでまで見ようとは思わなかったためパス。毎月第1、第3日曜日は開けているらしいので、機会があれば再訪したいと思います。記念館の裏のあたりには石造りの農業倉庫が残されており、むしろこちらが貴重。またホームと線路が資料館の脇に残っており車掌車ヨ8000とキハ20が保存されていました。割と気合を入れて資料館を造ったようですね。吾平駅跡の保存車両

さらに県道を東進して高山(こうやま)へ。地図の上では位置は確認していたものの、交差点名の標識が信号機のところに取り付けられていなかったなどのために位置を見失ってしまいしばらくうろうろする羽目になってしまいました。自分が地図を見てナビゲータをやっているならばこのようなことはないのですが、1人で運転している時には地図が見られなくなるのでしばしば位置を見失います。Mapion 高山鉄道記念館。高山町の中心部に駅を造ろうとすると高山川を横断する必要がある上に集落内の土地買収の問題があるという理由で川の手前に造りましたという事情が見えてきそうな駅の配置。ここは駅舎がそのまま残されているようです。ただし車両等はなにもなし。中にも入ることはできませんでしたが、外からのぞきこんでも大した資料はありませんでした。高山鉄道記念館

ここで大隅線は向きを変えて北上して串良(くしら)へ向かいます。その道路のすぐ脇に下小原(しもおばる)駅の跡を発見。Mapion 下小原駅跡鉄道記念公園。鉄道記念公園と書かれてはいるものの車輪が1個置かれていて石碑が建っているだけ。これがなければここに鉄道があったとは信じがたい光景になっていました。線路跡と見て分かるような道もなし。さらに北上して同じ道路の脇に今度は串良駅跡の鉄道記念公園を発見。Mapion 串良駅跡鉄道記念公園。こちらは児童遊園になっていて、鉄道を想起させる遊具が置かれているのは垂水と同じ。しかしながら直接鉄道に関係するものとなるともはや記念碑1つしかなく今日回った中ではもっとも簡素なところでした。なぜか、他のもっとまともな駅跡をさしおいて下小原と串良の2箇所についてはGoogleマップに明確に鉄道記念公園との記載があるのですけど、その実態はこんなものです。転換交付金は「公園と道路の整備に使いました」と石碑に書いてあるわけで、吾平のように立派な記念館を造りながらろくに利用されていないのに比べるとずっとまともな感じがします。下小原駅跡鉄道記念公園串良駅跡の碑

串良で今回の探索を終えて引き上げ。大隅線・志布志線・日南線の集結していた大隅半島の鉄道の一大拠点であった志布志は、大隅線と志布志線の廃止後に日南線の志布志駅が引っ込んでしまって、かつて機関区なども置かれていた広い構内はほとんど更地となってしまい、保存車両がちょっと置かれているだけの状態であることは、日南線の乗り潰しで訪れた時に把握しています。これより東の駅跡に何かまともなものが残っているとの情報は事前に調べた限りではなかったので引き上げることにしました。帰りは国道504号線を使って輝北を経由して帰還。初めて輝北を通ったのですけど、随分寂れた感じの町ですね。

明日は関西に戻る途に就きます。


2007-08-17 帰省上り1日目 [長年日記]

tDiary 804日目

_ [旅行][鉄道]帰省上り1日目

朝8時過ぎに地元の駅を出発。おおむね普通列車で移動するので18きっぷを行使しましたが、肥薩おれんじ鉄道区間を通り抜けるのは時間が掛かりすぎるので鹿児島中央-新八代のみ新幹線を利用。当然ナイスゴーイングカード割引で、昨日のうちに帖佐駅に寄って買ってありました。帖佐駅は一般委託駅でマルスは置かれていないもののほとんど同等の機能にしか見えないPOSが置かれていて、大抵のきっぷを買うことができます。いつのまにか窓口にみどりの窓口シール(緑地に白で座席に座っている人のピクトグラム)が貼られていましたが、フルに指定席も発行できるみどりの窓口に昇格したとは思えません。案の定機能制限があり、この駅ではクレジットカードを使えないとのこと。これなら当初から予定は分かっていたので日田で上りのきっぷも買ってしまえばよかったですね。

「つばめ2号」で北上。いつもより自由席は混雑している感があったもののそれでも輸送力をダブダブに供給している区間なので余裕で着席できます。新八代で「リレーつばめ」が在来線へ降りていく様子を見守ってから在来線ホームへ移動し、その後にやって来た普通列車に乗車。815系でした。熊本で乗り継ぎますが、車番を見るとさっき乗った車両と同じで、一旦引き上げてまたすぐに出てきたもののようです。これで鳥栖まで移動。815系はロングシートなので長距離移動ではあまり乗りたくないところ。もっとも座席1つ1つが切り離されていて(バケットシートではなく、金属製のロングシートに座布団と背もたれを1人分ずつ固定したような構造)それなりに座り心地にも配慮した設計のようには思われます。巨大な1枚窓は普通列車用としては破格。

鳥栖で長崎本線に乗り換え。久保田で降りて、唐津線に乗車。佐賀でも乗れるのですけど、分岐駅の久保田で降りてみました。予想外に小さな駅。むしろ唐津線に入った最初の駅小城の方が人の乗降も多く駅員も配置(一般委託のようですが)されていました。唐津で姪浜・(福岡市営地下鉄)博多方面からの筑肥線と合流して電化された高架上の近代的な駅に到着。ほとんどの乗客はここで降りるもの列車はさらに1駅先の西唐津まで。ここは1面1線のホームであるものの、駅のすぐ西側に車庫が広がっていてホームの目の前にも清掃線と思われる線路が伸びていました。乗ってきたキハ47形2連は一旦車庫に引き上げると、キハ125形2連を繋いで長い4連となって戻ってきました。国鉄形式のキハ47形とJR形式のキハ125形が併結できるとは知りませんでした。

山本で下車して筑肥線の伊万里方へ。現在の地図で見ると筑肥線は姪浜-唐津と山本-伊万里の2箇所に分断されていますが、昔は1本に繋がっていました。博多から西へ延びてきた筑肥線は松浦川の広い河口部に橋を架ける事ができず、川の東側の車両基地も置かれていた東唐津で一旦スイッチバック。川沿いに上流に遡って十分川幅が狭くなったところで横断して山本で唐津線に合流していました。ですので、ちゃんと博多から伊万里まで1本の路線として繋がっていたわけです。ご丁寧に山本から南側はしばらく唐津線と山本-伊万里間の筑肥線が併走しますが、筑肥線側が東側の線路を走り、しばらくしたところで立体交差で乗り越えて西へ向かうので、両線の間に平面交差支障はなかったのでした。その後、福岡市内の地上路線は踏切の問題もあるので福岡市営地下鉄に乗り入れることになって博多-姪浜は廃止。姪浜から先は直流電化されて電車が走り出しました。その時に松浦川の河口部に橋を架けて直接唐津に入るようになり、虹ノ松原-山本間が廃止になって路線が分断されました。今の筑肥線にも東唐津駅が存在しますが、昔のスイッチバックの東唐津駅とは別な場所とのこと。現在の山本駅は唐津線から筑肥線伊万里方面が分岐するだけの駅で、電化された唐津以東とは異なり、ローカル線同士の分岐駅です。かつて訪れた時には、西唐津方の線路沿い東側に国鉄清算事業団の用地であることを示す看板が立てられているフェンスで覆われた区画が存在して、明らかに昔の東唐津へ向かう線路跡だったのですけど、今回はそれらしき痕跡を発見できませんでした。山本からはかつては岸嶽へ向かう支線も分岐していて石炭輸送華やかなりし頃はかなり栄えたのでしょうけれど、今は昔日の面影はないですね。

筑肥線で伊万里に到着。ここは、以前JR線の乗り潰しで訪れた時(1999年)にはまだ国鉄時代の情景そのままで、第3セクターの松浦鉄道(旧国鉄松浦線)とJR筑肥線が同じ駅を使っていました。その後駅舎は取り壊され旧駅を分断するように道路が建設され、その道路の東西にJRと松浦鉄道のそれぞれの駅舎が建設されました。線路も分断されてもう直通できません。東駅がJRでかつての側線のたくさんあった伊万里駅とはかけ離れた棒線駅なのに対して、西駅は松浦鉄道で同じ路線名を名乗っているとはいえ伊万里でスイッチバックになり、松浦・たびら平戸口・佐世保方面と有田方面が実質的に別路線でその接続駅になっていることもあり、2面3線のホームに留置線が備えられているなどかつての伊万里駅の感覚が残っています。ホームも昔のものをかさ上げしたもののように見受けられます。ここから有田まで松浦鉄道で移動。

有田から早岐を経由して諫早まで移動して、今日は諫早で宿泊。明日は、今年度一杯で南半分の廃止が決まってしまった島原鉄道の再訪に出かけます。


2007-08-18 帰省上り2日目 [長年日記]

tDiary 805日目

_ [旅行][鉄道]帰省上り2日目

今朝は諫早から出発。ホテルで朝食をのんびり食べていたら、駅に着く頃には乗る予定の列車の発車寸前になってしまいました。諫早駅のコインロッカーに大きな荷物は預けて出かけるつもりだったのに、コインロッカーをすぐに発見することができず結局今日1日持って歩くことに。島原鉄道の乗車券を買うこともできずに、どうせ今日この後使うからと18きっぷを使って通り抜けました。諫早駅では島原鉄道に乗車するにもJRの改札口を通ります。JR駅に乗り入れている私鉄が1番線ホームの駅舎側切り欠きの0番線に発着するのは御坊(紀州鉄道)や勝田(茨城交通)などでもある珍しくない構図。ワンマンかと思っていたら意外にも車掌が乗っていて、検札の時に1日乗車券(島原半島遊湯券…温泉入浴券と島原鉄道の鉄道・バス・フェリーが乗り放題のきっぷのセット)が欲しいというと、手元にないので駅で取り寄せますと言われ、愛野で交換待ち停車の間に取り寄せてくれました。愛野というと静岡県の東海道本線にできた最近の新駅の名前と同じですが、こちらはずっと昔から存在している駅です。委託駅のようで人が詰めていました。乗っている列車も交換する列車もキハ2500形。JR九州のキハ125形とほぼ同型の気動車です。キハ2500形

島原半島の中心都市島原市の中心駅、島原に到着。駅舎はすぐそばにある島原城の印象を取り入れたもの。島原と深江の間を往復しているトロッコ列車に乗ろうと思ってその時刻に合わせてやってきたのですが、駅の窓口で聞いてみたところ団体さんが乗るのか1号は満席との返事。2号、3号、臨時便なら空いていますと言われ、手持ちのノートパソコンで島原鉄道のダイヤ図を表示させてしばしこの後の行程を検討。しかしながら、島原外港以南の今年度一杯での廃線予定区間を再乗車することが大前提の旅で、この区間の列車本数が少ないため1号以外のトロッコ列車に乗ると加津佐まで行って来る行程に著しく障碍があることが判明。残念ですが、トロッコ列車への乗車は諦めることとなってしまいました。島原駅島原鉄道のトロッコ列車

島原駅の改札口脇には創業の頃使っていたものと思われる機関車の銘板や各種レール類が展示。その周りをNゲージ鉄道模型が走り回っていました。ちゃんと自社塗装のキハ20形(国鉄キハ20形と同型)の模型も置いてあるのに、なぜか走り回っているのは近鉄ビスタカーでした。

島原から南下して島原外港以南の廃線予定区間へ。南島原に車両基地があって、ここより北はかなり列車本数が確保されているのですが、南側は1時間に1本も確保されていないという状況。私が乗った加津佐行きはかなり混雑している状況だったのですけど、もともと列車本数が少ないという事実を考えると、やはりこの区間の鉄道を維持するには厳しい需要なのでしょう。南線は海岸沿いを走る風光明媚な区間が多く、乗っていても、多分外から写真を撮る人にとっても楽しい区間なのですけど、とても残念ですね。加津佐駅に到着。元の加津佐町は合併により南島原市となっています。地図を見れば今回の廃線予定区間はほぼ南島原市の範囲ですね。加津佐駅は加津佐町の中心部の手前にあって、ちょっと歩かなければ町に入れません。鉄道に並行して島鉄バスも走っていて、こちらの加津佐バス停は駅より街中に近いところにあったのでこちらの方が便利そうです。自社バスなのに駅を経由しないのも面白いですね。ここから愛野を通って諫早に島原半島の西側を経由して抜けることもできるようで、そういう旅も面白そうですが、もうまもなく加津佐で鉄道とバスを乗り継いでの旅はできなくなりますね。駅に近いところで昼食。ほぼ1時間の滞在の後同じ車両の折り返しで引き返しました。末端駅に1時間も車両を置いておけるというところに昼間ダイヤの閑散振りが現れています。少し東へ向かった原城で対向列車と交換。こちらは日を限定して運行されているキハ20形でした。今日は国鉄一般色が運用に入ったようです。既にキハ2500形だけで全ての運用を賄える数があると思うのですが、残してあるのはやはり商売ネタになるからでしょうね。国鉄首都圏色や旧島鉄色の車両もあって、ウェブサイトに運用が掲載されています。加津佐駅キハ20形国鉄一般色

原城で途中下車して、駅からちょっと東の方へ歩いたところにある原城跡を回ってきました。先ほどのキハ20形が加津佐まで往復してくる1時間の間で、原城の本丸跡まで見てくることができました。購入した島原半島遊湯券で入湯できる温泉には、この原城のすぐ北側にある原城温泉真砂も含まれているのですが、時間的に余裕が無く入湯は断念。原城は島原の乱で有名な城で、海岸沿いの小高い丘といった感じの地形でした。中まで道路が通じていてあちこち耕地になっていました。しかしながら板倉重昌*1の碑があったり、一揆軍の掘った空堀の解説板が立っていたりと、史跡である様子ははっきり見て取れます。本丸の中は公園のようになっていて保存されています。本丸の崖には石垣も残っているのですけど、乱の跡幕府軍が徹底的に原城を破壊したはずなので、このように綺麗に石垣が残っているとは思われず、最近になって公園として整備するために復元したのではないでしょうか。本丸内には墓碑や天草四郎の銅像などがありました。海側が断崖になっているので本丸からの海の景色は綺麗です。原城本丸天草四郎像

折り返してきたキハ20形に乗車。一応エアコンが付いているらしいのですが、全く効いてなくて最悪の状態。これならエアコンを消して窓を開けた方がずっとマシです。車内はかなり混雑していました。地元の高校生などは客寄せのために旧式車両に乗せられてうんざりではないでしょうか。しかしながら車内床のエンジン点検扉からカタカタとエンジン音が漏れてくる様子はキハ20形らしいですね。

南島原で下車。ここで同じ国鉄一般色のキハ20形を先頭側に増結して2両編成で諫早の方へ走っていきました。この駅の海側には車両基地が併設されており、多くのキハ2500形に混ざってキハ20形も並んでいました。加津佐へ向かう時には国鉄首都圏色(いわゆるタラコ)もいたのですが、どこかへ行ってしまったようで見当たらず。国鉄急行色に赤いヒゲをはやした島鉄色のキハ20形が止まっていました。奥には救援車と書かれたワムとヨ8000が止まっていますね。新しい味気ない駅舎に建て替えられてしまったところがほとんどの島原鉄道の中で南島原駅は当初の駅が残っているようでとてもいいですね。しかしながら正面入口は閉鎖されていてその左側から入るようになっていました。待合室内では同じ場所で撮影された昔の写真と今の写真の対比の展示が行われていて面白いです。南島原駅の建設は、車両基地に十分な広さを確保するために海を埋め立てるなどして大変だったそうです。古風な窓口も残っていて硬券入場券を買えました。キハ20形国鉄一般色2両編成旧島鉄色のキハ20と救援車南島原駅

諫早方面へ帰還を開始。愛野で降りて、愛野村駅跡の碑を撮影。戦前には島原半島のちょうど付け根の位置にあるこの愛野(当時の駅名は愛野村)から分岐して温泉軽便鉄道(後に雲仙鉄道)が半島西部の小浜へ向けて走っていたそうです。加津佐は半島南端より西側にあるので、あと少しで半島一周鉄道網になるところでしたね。10年ほどですぐに廃止になってしまったそうですが、今でもあちこちに痕跡が残っており全ての駅跡に碑が立っているそうです。愛野村駅跡の碑

さて、諫早へ引き上げてきて18きっぷで帰還、という時に問題発生。あろうことに18きっぷを紛失してしまったことが発覚しました。前述のように、諫早で朝入場する時に18きっぷを使用していますからその時に持っていたのは確実。胸ポケットに入れたままだったのでどこかで落としてしまったのでしょう。これは大失敗。再度18きっぷを買い直すことも考えましたが、関西へ戻るのに使うのは2日分であり残り3日分の消化の目処がありません。諫早でのJRへの乗り継ぎは8分しかなく、これを逃すと特急に乗らなければ「ムーンライト九州」に追いつけなくなってしまうので、結局のところ再度購入するのは諦めて関西まで新幹線で帰ることにしてしまいました。大損害です。新幹線だと今日中に帰れてしまうのが何とも。持っていた「ムーンライト九州」の指定券を乗変しようとしましたが、差額のクレジットカード払いはできないと言われて、現金の持ち合わせが無かったためにやむをえず指定券はキャンセルにし、全区間自由席で購入して帰ってきました。

切符をなくしたのは初めてのことで、なかなか痛いことですね。これからはこのようなことが無いように気をつけなければ。

*1 当初の幕府軍総指揮官で、一揆軍の銃弾にあたって戦死


2007-08-19 英語案内 [長年日記]

tDiary 806日目

_ [鉄道]英語案内

昨日関西に戻ってくる時に思ったことなのですが、日本の鉄道では英語案内が実にないがしろにされていますね。博多駅で乗る「のぞみ」を待っている間、ホームで時々流される案内放送を聞いていると、せっかく自動放送で日本語と英語で案内が繰り返されるのに、英語の自動放送に割り込んで駅員がつい先ほど流された日本語の自動放送の内容をまた繰り返しているという…。情報が1ビットも増えてないので余計なことをせずにちゃんと英語の案内放送も流して欲しいものです。どうもマイクを持って喋っていなければ自分の仕事をしていないという気になっているのではないかという感があります。さすがに九州新幹線では気合を入れて韓国語、中国語の案内放送までつけたので、全ての自動放送が終わるまで車掌が割り込むことは避けていますが、これも口頭で喋っている内容で付け加えられる情報量はほとんどないといえましょう。プロが綺麗に発音して十分な情報が伝えられる自動放送があるのなら、車掌の聞き取りづらいだみ声で余計なことを言う必要はないと考えます。その点JR九州(とその受け売りであるJR北海道)の客室乗務員(つばめレディ)はちゃんと放送の仕方について細かく指導を受けているようなので、綺麗に聞き取れる放送をしてくれます。

台湾に行って思ったこととしては、台湾は英語と日本語の案内が様々な場所でとても充実しています。もちろん観光客が行くような場所だからその対応がしてあるのですけど、日本ではそういう場所でもまだまだ外国語対応が遅すぎます。小さな国ほど、自分の国の中だけを商売相手にしていては成り立たないので国際市場を見据えた対応が進む傾向があるようですけど、日本はなまじ1億2000万の国内市場が十分に大きかったために、歴史的な事情(外国と交流のある期間が短い)もあって、実にドメスティックで完結した環境ができあがっているように思われます。もうちょっと、どうにかしていかなければならないのではないかと思うのですがどうでしょうか。


2007-08-20 中華航空機炎上事故 [長年日記]

tDiary 807日目

_ [交通]中華航空機炎上事故

那覇空港で着陸直後の中華航空機が炎上した事故があったとのこと。テレビで見ると物凄い炎を吹き上げていましたね。中華航空というのはどうしても事故が多いという印象が否めないのですけど、だからといって具体的に挙げられる過去の中華航空の事故例は名古屋空港の着陸時の墜落事故くらいしかないのですが。日本乗り入れ航空会社の事故率ランキングを見ると明白に高いですけどね。夏の台湾旅行では中華航空を使うプランは有意に安い傾向が見えたのですけど、個人的に中華航空以外をプッシュしたのでキャセイパシフィック航空になりました。しかし、このランキングを見るとキャセイパシフィックもまだ事故率が高い方に属していますね…。Wikipediaのキャセイパシフィック航空の記事では1972年以降1度も重大事故を起こしていないとあるのですけど…。

朝日新聞のアルミ合金製の機体が悪いかのような記事にはちょっと違和感がありますね。非常に古くからアルミ合金(ジュラルミン)は航空機の材料として用いられてきたわけで、ゼロ戦だってジュラルミン製です。「軽量の素材を使って燃費を向上させた最新鋭のジェット旅客機」と言われて思いつく軽量素材は炭素繊維(ジュラルミンよりさらに軽い)なのですけど、この記事だとまるでアルミ合金が最新の軽量素材かのように思われてしまいます。単に航空専門家から「アルミ合金は火災に弱い」という話をもらってきて、それに記者が適当に「最新鋭の」とかの冠言葉をつけて記事にしてしまったのではないかと推測するところです。なお、炭素繊維も火災に弱いのは同じのようです(炭素ですからね)。だからといって鉄で作ったらまともに飛ばないでしょうし、これは航空機の宿命的な弱点の気がします。

なお、現用の航空機のほとんどはガソリンではなくジェット燃料で飛行しており、これは燃料の性質としては軽油や灯油に非常に近く、ガソリンに比べるとはるかに引火しづらい燃料です。ジェット機ではなくプロペラ機ではどうか、というと、大型のプロペラ機のほとんどはターボプロップエンジンを使っており、これはジェットエンジンの構造を変更して推力の多くを後方排気ではなく軸の回転エネルギーとして取り出すものなので、ようはジェットエンジンの変種です。したがって大半のプロペラ機もジェット機と同じジェット燃料を使っています。一部の小型プロペラ機のみが、自動車に搭載されているレシプロガソリンエンジンの大きなものを搭載していてガソリンを燃料にしていますが、通常このタイプの航空機が定期旅客輸送に就くことはあまりありません。したがって、第2次世界大戦当時の軍用機みたいに簡単に火を噴くことはないはずです(大戦当時でも簡単に火を噴くのは日本機だけだろうという話もありますが)。しかしながら、エンジンの余熱だけで簡単にジェット燃料の引火点を超えるのは間違いないので、漏れてしまえばすぐ火災事故になるのは避けられないですね。

荷物も持って降りられなかったと思うので、身の回りのものが全焼してしまったでしょうからかなりの災難です。しかしながら、これだけ激しく炎上しながら1人の死者も重傷者も出なかったというのはかなり凄いですね。これで飛行中に起きていたらかなりの大惨事だったことは間違いないですから、運がよかったとしかいいようがないですね。


2007-08-21 JR貨物逆走事故 [長年日記]

tDiary 808日目

_ [鉄道]JR貨物逆走事故

東海道本線でJR貨物の機関士が居眠りをして逆走事故を起こしたとのこと。後続の急行「銀河」が停止現示で停車していたのは当然としても、後退に気づいて機関士が列車を停止させた時点で約220mしか残っていなかったとのことで、なかなかぎりぎりの状況だったようです。歴史をたどると東北本線で夜行急行列車で機関士が居眠りをして後退して後続の貨物列車に衝突(これは追突なのか正面衝突なのか…)した事故がありました。上り勾配中で居眠りしてしまうとそういうこともあるわけですね。しかしながら、逆行検知機能は付いていないものなのでしょうか。かなり昔、大学時代に新京成電鉄の人と話をした時には、電車にはそういう装置がついているということを聞いたのですけど。

この貨物列車は27両編成と書かれていますね。機関車を含めて27両ということでしょうから、コキ車は26両。これは現在国内最長の貨物列車ということになります。最近完成した山陽本線の輸送力増強(待避線延長)工事に伴って、東京貨物ターミナルから福岡貨物ターミナルまでの間は従来の24両編成1200トン列車から26両編成1300トン列車の運転が可能となっており、当該列車はまさにこの増強された編成ということになります。昔のワム車をたくさん繋げた一般形貨物列車ならもっと長い編成が普通にいたのですが、あれは1両あたりの長さが今のコキ車とは比べ物にならないくらい短いですからね。全長では今の方が長いと思います。

もともとEB装置が付いていれば、1分間マスコン、ブレーキ、汽笛、砂箱の無操作で警報が作動して、さらに5秒間無操作だと非常ブレーキが作動するのですけど、これは聞くところによると警報に対して何らかの操作をして取り消すという動作が習慣化してしまって役に立たないとのこと。眠り込んでいても無意識に操作して警報をキャンセルしてしまうことが本当にあるそうです。ATSの警報が作動した時に寝ていても無意識に確認ボタンを押すという話もあります。居眠り対策となると、もっとインテリジェントに運転士の意識レベルを測定する装置を使うという対策も考えられているようですね。結局のところ、いくら気合を入れろと精神論を言ってみても人間なのでどうにもならない面はありますし、たとえどれだけしっかり休暇を取っていても眠ってしまう時はあるわけで、やはり何らかのバックアップシステムが必要なのでしょう。


2007-08-22 焼き肉イベント [長年日記]

tDiary 809日目

_ [その他]焼き肉イベント

今、うちの部署にアメリカからインターンの学生がやってきています。随分前から来ているのですが、「直接(インターンの)職務と関係ない社員との交流がないよ」ということがいたくご不満だったようで、今日急遽焼き肉・カラオケイベントが発生することになりました。何も週の半ばに開くこともないと思うのですが、仕事をいつもよりかなり早く切り上げて出かけることに。私はあまり遅くまで参加するのは後に響くと思って焼き肉だけ出席しました。

同じ部署ながら他のグループのことになるともうまるで分からないというのが現実で、実はもう1人日本人の大学生のインターンが来ているということを今日初めて知りました。同じフロアにいるというのに。三重県は名張の出身だそうで、本当にあんなに遠くから通勤/通学している人がいるんだなということを認識。大阪の大学に通っているので、普段は研究室に泊まってしまうことも多いとか。さすがに名張は遠いですね。「中部地方ですから」と本人は言っていましたが、伊賀地方はほとんど近畿ですよね。

さて、アメリカ人のインターンご本人は日本語がペラペラで、日本語で話をするのに全く困らず今日は終始日本語で会話。聞いてみた所、日本語で話をする時は頭の中でも日本語で考えているそうです。これは理想的ではあるものの、自分について言えば英語を話す時に英語で考えられるほどまだ英語が上手くないというのが現実です。「8年間日本語を勉強しましたから」と本人は言うものの、私はそれ以上の期間英語を勉強しているわけで、ほとんど無能と言われてしまったも同然です。

さて、焼き肉のメニューを説明しようにも、自分たち自身がメニューに書いてある言葉の意味を理解していないということで四苦八苦。「てっちゃん」というのは一体何なのだろうと日本人一同考え込んでしまうわけで、帰ってから調べてみると大腸の朝鮮語読みだそうです。初めて知りました。平然と書いてありますけど、腸はBSEの特定危険部位なのでは? そんなことを言い出せば、タンだって特定危険部位ですけど。今日はタンも食べましたが、「これは英語ですよ」と言うと、しばらく考え込んで「ひょっとしてtongueですか?」とぎょっとした顔。やはりゲテモノ扱いのようですね。生レバーとかユッケとかにもちょっと険しい顔。やはり生ものは苦手なようですね。

しばしば思っていた疑問をここで質問。「ネイティブの人には、LとRの発音ははっきり違って聞こえるのですか?」というと、「全然違う」とのこと。実際に目の前でcrowdとcloudの発音をやってみてくれ、しっかり聞いてみると確かに違う音なのですけど、日本人の耳には本当に微妙な差異としてしか聞き取れず、これが文章中に現れると全く聞き分けることは無理でしょうね。Rの方がちょっとくぐもった音に聞こえます。「日本人のラ行の音はどちらに聞こえますか?」と聞くと「どちらでもない」とのこと。そんなに微妙な音があるものなのですかね。日本語は世界でも最も発音が単純な方に属するわけで、そういう言語に慣らされてしまうと発音の微妙な差異が分からなくなってしまうのでしょうね。

実は日本語も、昔はもっといろんな発音があったのだそうで、現代人には一見不明確に見える連濁(前後の音の関係で濁点が付く現象)の規則も、昔の発音ルールを知っていると法則が見えてくるものがあるそうです。明治時代に最初に作られた国語辞典には日本語の辞書なのに発音記号が付いているものがあったそうで、「日本語の発音なら当然かなで表記できるだろう」という現代の常識では考えられないことですが、実際には必ずしもかなでは表記しきれない発音の差というものがあったのだとか。識字教育の進展で、日本語の全ての音はかなで表せるはずという考えが細かい発音の差異を潰していってしまったようです。日本語以外の言語を見ても、文法や発音などで簡略化・省略化の変化があちこちに現れていて、昔のラテン語のような厳格な言語からすると随分堕落しています。人類の言語の歴史というのは堕落の歴史なのかもしれません。

今回の主賓のアメリカ人インターンの方はもうすぐ帰国してしまうのですが、ちょうど入れ替わりになるようにドイツ人のインターンがやってきます。こちらは日本語ができないそうで、ドイツ語、英語、フランス語、イタリア語、ポーランド語ができるとか。少しはこちらも語学の勉強ができると良いですね。


2007-08-23 DDH「ひゅうが」進水 [長年日記]

tDiary 810日目

_ [軍事]DDH「ひゅうが」進水

平成16年度予算で建造が進められていたヘリコプター護衛艦(通称16DDH)の1番艦がこのほど進水し、「ひゅうが」と命名されたとのこと。最大で11機もヘリコプターを搭載できるんですね。従来の「はるな」型DDHは3機だったので随分能力向上したものです。「はるな」も建造された時にはヘリ空母だのなんだのと批判されたものですが、まだ後甲板がヘリコプター用になっているだけで形としては普通の護衛艦だったのに対して、「ひゅうが」は全通飛行甲板を持っているのでぐっとヘリ空母になってきました。あくまで類別はヘリコプター護衛艦(DDH)ですが、Mig-29やSu-27が発着艦できるれっきとしたCTOL空母「アドミラル・クズネツォフ」もロシア海軍に言わせれば航空重巡洋艦だそうですので*1

この前に作られた全通飛行甲板を持つ「おおすみ」型は、あくまで輸送艦ということであってこの「ひゅうが」とは性格が違うようです。隣同士の旧国名を付けたではないかと一瞬思ってしまいますが、「おおすみ」は旧国名ではなく半島名であることは2番艦「しもきた」、3番艦「くにさき」から見ても明らか。海上自衛隊は輸送艦には半島名を付ける規則なのです。一方で「はるな」を置き換える「ひゅうが」となると旧海軍の戦艦名ではないかと思う*2のですが、何か意図するところがあるのでしょうか。旧海軍の戦艦の名前規則は旧国名となっていて、戦後旧国名の艦名が使われていないことを考えると、今後は旧国名がヘリコプター護衛艦、あるいはその他の航空能力艦に使われることになるのでしょうか。現在建造されている「ひゅうが」型の2番艦(18DDH)に「いせ」と付いたら面白いですね*3

*1 空母のボスポラス海峡通行禁止を定めたモントルー条約を回避するためらしい

*2 「榛名」は巡洋戦艦ですが

*3 旧海軍で「伊勢」と「日向」はともに「伊勢」型戦艦の同型艦、大戦後半に後甲板を飛行甲板に改装して航空戦艦になったのも同じ


2007-08-24 アジア空母保有競争 [長年日記]

tDiary 811日目

_ [軍事]アジア空母保有競争

朝鮮日報の記事を読んでいて、アジア各国が「空母保有」競争という記事を見つけました。2年も前の記事ですが、ちょうど昨日進水が報じられた16DDH「ひゅうが」の話も載っていますね。日本は進水時に艦名の命名を行う習慣があるので、この記事の時点では「ひゅうが」との名前は分かっていません(アメリカは進水よりだいぶ前に艦名を発表してしまうのです)。

インドは昔から空母を保有していますが、「ヴィクラント」は引退してしまってロシアから「アドミラル・ゴルシコフ」(元「キエフ」級軽空母4番艦「バクー」)を買ったのは周知の事実。これが、元はヘリコプターとYak-38「フォージャー」(垂直離着陸機)しか搭載できない軽空母だったのに、魔改造をしてCTOL機を発着できるようにしてしまうようです。インドでの艦名は「ヴィクラマーディティヤ」とのこと。タイ海軍の「チャクリ・ナルエベト」は世界でも最小クラスの軽空母で、スペイン製。完成してタイに到着した途端にアジア通貨危機に遭遇して空母の運用どころではなくなり、しばらく岸壁に繋がれて放置されていたという悲惨な艦。2隻目を買うという話が書かれていますが、そんな話はついぞ聞いたことが無く。最近「世界の艦船」誌を購読していないので世界の海軍の動向がどうなっているかよく知らないのですが、そんな話が出ているのでしょうか?

日本の16DDHが軽空母への改装が容易と書かれていますけど、ジェット噴流に耐える飛行甲板になっていないので簡単な改装では無理との声も聞かれます。そもそも艦載機になりうる「ハリアー」が生産中止になってしまっていて入手できません。F-35が入手できるようになるまでは艦載機調達は無理なことです。そもそも日本の防衛戦略上、沖縄やグアムより先のシーレーン防衛はアメリカに委ねてしまっているので、空母を必要としないのですけどね。沖縄や硫黄島に陸上の飛行場がちゃんと存在しているので、運用上の制限がきつく高価な空母を使う必要性があまりないわけで。

ところで、「第2次大戦当時、6隻の空母を保有していた日本」って何でしょうね。ひょっとして真珠湾攻撃に参加した南雲機動部隊の空母だけが日本の保有した空母だと思っていますか? 「大鳳」とか「信濃」とか、大型の空母は他にもいますし、大戦中に完成した空母を含めずに開戦時の話だとしても「鳳翔」とか「祥鳳」とかいるわけですけど。商船改装空母の「大鷹」を含めないとしても、開戦時の日本海軍の保有空母は10隻のはずです。こういう基本的なところで間違っていると、他の全ての情報が怪しく見えてしまうわけで。自分が詳しい交通とか軍事とかの記事で誤りが散見される(これは朝鮮日報に限らずどのマスメディアでも)様子を見ていると、自分が気づいていないだけでその他の分野もひどいものなのですかね。

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

_ ばくそく [知りませんでした。 第2次大戦当時、6隻の空母を保有していた日本:きっと記者が教科書にする有力資料に誤記があると考え..]

_ Tamon [「伊勢」は改造後は航空戦艦と呼ばれてますが、日本海軍としての正式な類別は戦艦のままだそうです。 カタパルトを使って航..]

_ ばくそく [そうか戦艦なんですね・・・伊勢は。 着艦行えないなんて・・・凄い割り切りです。 当時の日本海軍は。]


2007-08-25 鉄道模型フェスティバル [長年日記]

tDiary 812日目

_ [模型]鉄道模型フェスティバル

阪急百貨店・阪神百貨店が共同で鉄道模型フェスティバルを開催中とのことで、早速出かけてきました。1週間程度しか開催期間が無くて週末は今日明日のみということもあってか、会場は物凄い大混雑振りで、入場券を買うのにしばらく並ばされる有様でした。阪急や阪神の会員カードを持っていると無料入場できるそうで、会員サービスがなかなかですね。さて、阪急でおでかけする関係上、先に阪急百貨店7階の会場の方へ出かけました。なかなか気合の入った展示内容で素晴らしいです。HOゲージとNゲージの集合式レイアウト*1がいくつも並んでいて、KATOとトミーテックの関係者が各社自慢の車両群を走らせていました。こういう大きなイベントとなるとプロモーション効果が大きいので、鉄道模型メーカ各社は全面協賛ですね。鉄道模型工業会製作の初心者向け入門ガイドも配布されていて新規ユーザ獲得にも熱心です。長円エンドレスのレイアウトでは物凄く長い石油タンク貨物列車やワム車の車扱貨物列車が運転されていて見ていて楽しかったです。

トミーテックのブースではカメラカーが運転されており、会場内あちこちに大きなモニタが設置されていてそのカメラカーの映像が流されていました。これは会場の外側にまで液晶モニタをぶら下げて映像を流していて、外部の人間にもアピールしていました。カメラカーは確かにインパクト絶大ですね。しかしながら実際にカメラカーの映像を楽しめるシステムを準備するとなるとPS3が買えるくらいのお値段になってしまうという…。それにちゃんとしたシーナリー(風景)付きのレイアウトの中を走らせないとあまり面白くない気がします。そうなるとさらに手間とお金が掛かるわけで。トミーテックのレイアウトには信号機もたくさん組み込まれていて、カメラカーの画像からも現示を確認できます(かなり近づかないと見えないですけど)。これはなかなかリアルですね。しかしながら長い直線のところにいくつも信号機が並んでいると、現示アップのおかしさが目に付いてしまいます。鉄道模型の信号機の場合、通常は実車と異なり軌道回路で制御しているわけではなく、列車の通過を検知した時点でRにして、それから時間で現示アップしていきます。トミーテックの信号機はレイアウトがエンドレス構造であることを前提に、周回に掛かる時間を測定してそれに基づいて現示アップ時間を変える仕組みになっていますが、どうもうまくいっていなかったようで、より先の方にある信号機が先にGまで現示アップしてしまっているのが見えていておいおいという感じでした。完全にやるにはやはりきちんと論理を組んで制御しなければならないですね。凝っている人は本物のリレーを使って連動装置を組むそうですが。しかしながら5灯式信号機の現示アップの様子は見ていて楽しいものです。

隣の部屋では阪急コーナーが設置されていました。阪急の模型を専門にやっているサークルが展示しているものだそうで、歴代の阪急車両のほとんどを模型として製作してしまったとか。ずらっと展示されている阪急車両のマルーンの大群は圧巻でした。また、いろいろなセクションも展示されていて、西宮北口にかつて存在した神戸線と今津線の複線同士の平面交差(ダイヤモンドクロッシング)が再現されていたり、現在の梅田駅の様子を精密に模型化したものが展示されていたりしました。ラガールビジョンや各ホームのLED式発車案内票まで非常に精密なできで、多くの人が張り付いて写真を撮りまくっていました。模型をやっていない人でもこれを見れば凄さが分かるのでしょう。鉄道模型フェスティバルを告知するウェブサイトのトップの写真も入場券に使われている写真もこの模型です。西宮北口ダイヤモンドクロッシング模型阪急梅田駅模型

阪神百貨店8階の会場の方に移動。こちらは阪急の会場に比べると場所も狭く、あまり多くのレイアウトも展示されていないものでした。NHKで今年2月くらいに放映されていた「ようこそ鉄道模型の世界へ」で講師を務めていた諸星さんが来ていて、レイアウト製作の実演をやっているのが目玉でしょうか。しかしながらレイアウトの製作は時間の掛かる作業で、ちょっとその場で見ていて目に分かるような進展があるわけでもないわけでして。過去の作品一覧が展示されていましたが、この人の作品はリアルを目指すというよりはカバン1個に折りたためるパズルのような作品を作ってみたり、クリスマスケーキの中を列車が走っていたりと、ネタに走った作品が多い気がします。阪神の車両がずらっと並んでいる車両ヤードがあったのは阪急と似た趣向ですが、その奥にしれっと近鉄の車両が止まっているのは西大阪延伸線(なんば線)の関係なんでしょうね。会場隣接の特設売店ではトミーテックのコンテナが安くなっていたのでちょっと買ってしまいました。

総じて、やはり関西は鉄道文化とでも言うべきものが強く感じられますね。うちの地元でこのようなイベントをやったとしても、人口が少ないという以前に関心のある人が少ないという点でほとんど人が集まらないでしょう。ごく普通のおばちゃんとか老夫婦とかが何気に「濃い」会話をしている様子も見受けられたわけでして。

ところで出かける時に中津で見た神戸線の対向列車がクロスシートだったのを見てびっくり。調べると8000系の一部編成は神戸・宝塚方の2両がクロスシートなんですね。神戸線にクロスシートの車がいるというのは、神戸線沿線に引っ越してきて3年目にして初めて知りました。不覚です。

*1 いくつかのセクションに分けて製作しておき、現地で接続部分のレールを繋いで大きなレイアウトを構成する


2007-08-26 エンジンブレードから生まれたオーケストラ [長年日記]

tDiary 813日目

_ [webサイト更新]「蒸気機関車200年史」書評追加

書評コーナに「蒸気機関車200年史」の書評を追加しました。日本中心の蒸気機関車に対する見方を吹き飛ばしてくれるような本です。

_ [交通]エンジンブレードから生まれたオーケストラ

JALの関連会社が航空機のエンジンブレードを加工して製作した「オーケストラ人形」なるものを販売するとか。いやー、これはかっこいいですね。本物のエンジンブレードを使って作っているというのが最高です。しかしながら値段が凄く高い…。さすがに買えないですね。この記事はどこにも大きさが書かれていないですけど、どれくらいの大きさのものなのでしょうか。エンジンブレードというとそれなりに大きなもののような気がしますが。そもそも溶接で細かい工作ができるのかという疑問もあります。

この手のオブジェがさりげなく部屋に飾ってあるとかっこいいな、と思いつつも、いいと思ったものは大抵高くて買えないというのが実情。うちの部屋に飾ってあるオブジェはせいぜい愛知万博のJR東海館で売られていた、山梨実験線見学センター付近のジオラマ(\5000)ですね。これ、ちゃんとレールと車両に磁石が入っていて浮くのですけど、走るわけではないので浮いている様子が外からは全く分からないという、何のために浮かせたのか良く分からないものです。

後注目しているものとしてはポリティカルチェスですね。各国首脳の顔に似せた駒を使うチェスセットというもので、ブッシュ陣営とプーチン陣営が対立しております(苦笑)。両陣営の駒の配役を見ると確かに親米勢力対反米勢力といった感じなのですけど、プーチン陣営にいるベルルスコーニ イタリア首相は違うだろうといった感が。小泉前首相がしっかりブッシュ陣営のルークとして入っていますが、これは小泉さんがそれなりに外国でも存在感のある人だったからこそ選ばれたと見るべきでしょうね。森さんや安倍さんでは多分ポーンですら採用されなかったと思います。ルークは将棋でいうところの飛車に相当する駒なので割と重要なところに配置されているとみます。しかしブッシュ陣営のクイーンはコンドリーサ・ライス国務長官…、この配役の中で唯一国家のトップじゃないじゃーんというツッコミが(アラファトは国家じゃなくて自治政府のトップですが)。クイーンだからちゃんと女性にしようとしたのでしょうけど、それでプーチン陣営のクイーンがブット元パキスタン首相になるのはかなり苦しい感が。こういうものが作れるのはチェスならではで、将棋だと敵の駒を取って持ち駒として使えるので両陣営で異なるキャラを採用するのは困難ですし、敵陣に入った時に成るという仕様を実現するためにはひっくり返すことが可能でなければならないので、デザイン的にも大きな制約です。しかしこのチェスも高いですなぁ。

やはり適当なサイズの鉄道模型レイアウトを作っておいて置くのが私にはぴったりですかね。これならお金をかけても私には許容できるものですし。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ ryot [将棋の駒なら表を「無所属」にして裏を「自民党」とすればおk]

_ Tamon [先生それでは敵味方とも自民党になってしまいます。 …党内抗争?]


2007-08-27 トレイン・オン・トレイン [長年日記]

tDiary 814日目

_ [鉄道]トレイン・オン・トレイン

現在整備新幹線計画により着々と東北新幹線の新青森延伸工事は進展しており、さらに新函館までの延長も着工したわけですが、これに関連して青函トンネルの運行方式が問題になっております。青函トンネルは新幹線断面の複線の規格で建設されており、現在はそれを在来線用に使用してブルートレインや特急「白鳥」、貨物列車の運行に利用しています。現状でも道床は三線軌に対応するものが使われていて、新幹線用の標準軌のレールを増設することで将来在来線と新幹線を同じトンネルで走らせるということが考えられてきました。しかしながら、在来線貨物列車と新幹線ではあまりに速度差が大きすぎて、トンネル内で待避することはできないことから青函トンネル区間の線路容量が大幅に制限されてしまうことが問題とされます。

これに対して、JR北海道が貨物列車を新幹線用の車両にそのまま積み込んでしまう「トレイン・オン・トレイン」の技術開発を進めているという話を聞きました。新幹線車両の車内に狭軌のレールを敷き、その上にコンテナ車を走らせてそのまま載せてしまうという発想です。Wikipediaの「トレイン・オン・トレイン」の記事。以前からそういう発想があるらしいということは聞いていましたが、具体的に技術開発が進められているとは知りませんでした。既に特許も出されているそうで、「特開2005-262914」となっています。

これに関して十勝毎日新聞が既に報じているようですね。フリーゲージトレインで旭川や帯広への直通も検討しているとあります。旭川なら電化されているのでともかく、帯広となると非電化なのでこの点をどうにかしなければなりません。現在開発されているフリーゲージトレインはあくまで電車方式ですし。

実際に試作も始まっているそうです。写真を載せているページ。試作をしているとなるとかなり技術的な検討は進んでいるようですね。車両を積みおろしするバースとのレールの接続は、鉄道連絡船の可動橋接続部分のようになるのでしょうか。鉄道連絡船は潮の干満で高さがかなり変わるのを調整するのが大変なのですが、それに比べると高さがほぼ一定のトレイン・オン・トレインならそれほど問題にはならないでしょう。また、走行中の搭載車両の動揺防止にも連絡船時代の技術が結構使えそうです。連絡船では車両にハンドスコッチを噛ます以外に、船体の端の車止めに自動連結器が付いていてこれと貨車を連結して勝手に走り出さないようになっていました。さらに入換機関車で目一杯エアブレーキを掛けてから切り離してブレーキも効かせるものの、長い航海だとエアが抜けてきて転動するので後期の連絡船では船からエアホースを繋いで圧力を補給する機構も備えていました。また、横方向に転倒しないようにレールの脇に金具を引っ掛けるためのレールが敷いてあって、貨車の金具にフックを引っ掛けて固定できるようにもなっていました。このために当時の貨車は固定金具が全て装備されていたとか。トレイン・オン・トレインでは、船ほど動揺は酷くないと考えられるので、それほど厳重な装備は必要ないのではないかと想像します。

しかしながら、連絡船では存在していなかった問題もあります。それは、貨車を積載している側も鉄道車両なので、1両あたりの長さがあるということ。カーブを通過するためには搭載車両側も連結器などを備えた通常の車両にしなければならず、そうなるとカーブ通過時に連結器付近を支点に編成が折れ曲がります。非搭載車両の連結器を解放せずにそのまま積載しているとすれば、支点の位置を揃えなければ連結器が折れてしまうことになります。船は全長が長くその範囲で運航中に折れ曲がらないことが保証されているのでその心配が無いわけです。連結器を解放して1両に1両ずつ積載すればこの問題は無視できるわけですが、解放・再連結する作業も自動化して高速に処理できるのでしょうか。特許の本文をきちんと読めば何か書いてあるかもしれませんが、まだ読めていません。後でしっかり読んでみたいと思います。

これが実現するなら、そのまま東北新幹線を走らせて首都圏との間に新幹線貨物輸送を実現してしまうなどということもできないのでしょうか。距離が長くなると直接コンテナを積載する新幹線貨物車両を開発した方がよいのかもしれませんが。しかし柿沼さん(JR北海道副社長)が率いるJR北海道技術部隊は次々に面白いものを考え出して世の中に送り出してきますね。


2007-08-28 トレイン・オン・トレイン(その2) [長年日記]

tDiary 815日目

_ [鉄道]トレイン・オン・トレイン(その2)

昨日取り上げたトレイン・オン・トレインに関する特許を読んでみました。この特許は、車両の中にレールを敷いて異なるゲージの車両を搭載して走らせるというアイデアと、その車両の出し入れの方法のアイデアを一緒にしたものです。標準軌線路側で運行される、狭軌車両を積載する側の車両は、プッシュ・プル(先頭と末尾に機関車がそれぞれ連結されて、牽引・推進する方式)で運転されることが想定されていて、狭軌車両を搭載してから標準軌機関車を連結する手順、標準軌機関車を切り離してから狭軌車両を発進させる手順がそれぞれほぼ対称な形で述べられていました。

機回しとか入換とかの面倒な手間を削減しようとするためなのか、出し入れの手順では鉄道の工場や路面電車の車庫などに見受けられるトラバーサを使ったものが提案されていました。標準軌の線路と狭軌の線路を並べて敷いた2路線分の横幅のあるトラバーサを用意し、トラバーサの片方には標準軌の線路、もう片方には狭軌の線路が繋がっています。狭軌車両を搭載する時を例に取ると、最初はトラバーサが狭軌側になっていて標準軌側には狭軌車両を搭載する貨車が横付け状態になっており、狭軌貨物列車を推進運転で搭載します。搭載が終わると連結器を切り離してトラバーサが横にずれて標準軌側が繋がります。このトラバーサの上に最初から標準軌の機関車が載せられているので、トラバーサが切り替わると貨車に標準軌機関車を連結してプッシュ・プルの形が完成するというわけです。車両を発進させる時は逆の手順となります。また、狭軌の車両を標準軌の車両の上に搭載するので狭軌の線路は標準軌の線路より車両の床面高さ分だけ高いレベルに設置されることになります。さらにこれの変形でトラバーサそのものが分岐器の役割を果たすようなアイデアも載っていました。

昨日疑問に思った連結器の支点を揃える問題についてはなんら触れられてはいませんでした。しかしながら連結状態のままで搭載することが詳細説明の方で触れられていたので、いちいち車両を切り離してバラバラに搭載するのではなく連結器支点を揃えて搭載車両と被搭載車両が一緒に曲がる方式を想定しているものと思われます。

この方式が実現するならば、北海道新幹線における並行在来線切り離しの大きな問題である貨物列車の運行も解決してしまうことになりますね。五稜郭-長万部間は並行在来線となってJRからの運営切り離しは確実(ひょっとすると五稜郭-新函館は残るのかもしれませんが)であり、この区間は第3セクターで運営しても到底採算が取れるところではないと考えられます。しかしながらこの区間が廃止されてしまうと本州と北海道を結ぶ貨物列車は運行できなくなってしまうことが大問題とされてきました。トレイン・オン・トレインが実用化されるならば、函館で貨物列車を降ろすのではなく長万部で降ろす(あるいは札幌貨物ターミナルまで新幹線上を走っていってもいいのかも)ことで、廃止区間を回避することができます。残念ながら並行在来線は廃止となってしまうわけですが、貨物のネットワークが損なわれてしまうことだけは回避できますね。もっと言えば、将来肥薩おれんじ鉄道が存続を断念するような事態があったとしても、この方式で鹿児島への貨物列車の運行を維持できることになります。新八代は現時点で既に高架上へ乗り入れるアプローチ線があるわけですし、鹿児島中央では無理ですけど川内では地上にある車両基地への連絡線があって車両貴地と在来線の線路は近いですから繋ぐのは難しくないでしょう。川内-鹿児島中央間をJR九州で維持していた意味が出てくることになります。もっとも鹿児島へは日豊本線周りでも維持できなくはないのですけど。

今後の技術開発の進展を楽しみに見守りたいですね。


2007-08-29 信号機・踏切故障 [長年日記]

tDiary 816日目

_ [鉄道]信号機・踏切故障

今日は会社帰りにJR福知山線の踏切でえらく待たされるということがありました。踏切の前にずらっと車が並んでいて、その時点で踏切の遮断時間が長くなっているなということは一目で分かります。時折こういう事態があるのですけど、大概はダイヤが混乱していて尼崎駅あたりの入線待ちの影響がはるばる私の利用する伊丹あたりの踏切まで数珠繋ぎとなって現れるのが原因です。こうなると車は悲惨なのですが(伊丹駅の両側に高架道路があるところまで迂回しなければならない)、徒歩だと他にもルートがある(猪名寺駅の陸橋や地下道を利用するなど)ので何とかなります。しかも、遮断機がほんのわずかだけでも開く時間があれば、歩行者や自転車はその隙にどっと渡ってしまえます。車だとそのわずかな時間ではせいぜい1台か2台しか通れないのでいつまでたっても踏切渋滞の列は解消しないという次第。

まぁ、いつものことだからほんの少しの踏切の開く時間を狙ってしばらく待ってみるかと思って踏切の前で立っていると、今日はいつもに反して全く開きませんでした。しかも奇妙なことに、下りの列車はスムーズに通過していくのに上りの列車はいつまでたってものろのろと走って数珠繋ぎ状態。こんな奇妙なことは初めてです。しかも踏切の脇に立っている下り列車に対する閉塞信号機が、基本的にGを現示しているのに時折ちらちらとR現示になるという初めて見る事態が。これは軌道回路が不安定な状態になってリレーが不正落下しているということですかね。どうも待っていても駄目そうだと思って、結局駅まで歩いて地下道をくぐって帰ってきました。同じ踏切で待たされていたバイクや自転車の人が困っていたので「猪名寺駅のところまでいけばバイクや自転車が通れる地下道がありますよ」と声を掛けてあげると、早速猪名寺駅へ向かって走り去っていきました。車はどうしようもないですけどね。

猪名寺駅を通行する時に見るとホームにも快速電車が止まって(猪名寺は快速通過駅)待機中。上り出発信号機相当の閉塞信号機(猪名寺は非連動駅なので出発信号機そのものはない)のところに白色LEDのような明かりを放つ警棒のようなものを持った人が2人立っていたので、ひょっとして手信号で列車を走らせていたのでしょうか。

帰ってきてからニュースをチェックすると、やはり信号機トラブルですね。上り列車が信号機故障を見つけているので信号機が変わらなくなる故障を起こしたのは上りの信号機のはずですが、私が変な動きをしている信号機を見たのは下りの方なわけで、落雷か何かであたりの回路がおかしくなっていたのですかね。踏切2つが閉じたままになる故障というのも、どこかの軌道回路が不正落下してしまってそれによって信号機と踏切が在線を誤認してしまっていると考えると説明できます。しかしながら踏切故障が無くても、目視で何本か見えてしまうくらい数珠繋ぎだったので、明らかに正常に作動している踏切も閉まりっぱなしでした。デジタルカメラを持っていれば信号機の奇妙な動きを動画に撮るところでしたが、さすがに常時携行しているわけではないのでそれはできませんでした。

歩行者なのでたいした影響も無くて帰って来れましたが、車の人は悲惨でしたね。


2007-08-30 信号機・踏切故障(その2) [長年日記]

tDiary 817日目

_ [鉄道]信号機・踏切故障(その2)

昨日に引き続き、今日もJR福知山線のダイヤはグダグダ。報道によれば、一旦は復旧したのにまた別な信号機が壊れたようですね。私がいつも通る踏切もJR社員と思われる人が張り付いていて、近づくと「故障していて上がりませんので駅へお回りください」と案内されました。たまたま同じ時間帯に踏切にやってきた会社の先輩と一緒に猪名寺駅まで大きく迂回して会社へ。見ると、猪名寺駅の上り出発相当の閉塞信号機は横を向けられていました。使用停止にされた信号機は、運転士が誤認しないようにバッテンを貼り付けるか横を向けることになっており、まさに使用停止中というわけです。信号機の電源を切っただけだと、何も点灯していない信号機は赤扱いという鉄道信号の原則によって列車が止まってしまうのです。というわけで手信号で列車を走らせているようでした。信号機の脇のインピーダンスボンドに人が取り付いてなにやらいじっていたので、このあたりが問題箇所なのでしょうか。

うちの会社にも福知山線を使って通勤してくる人がいて、そういう人の中にはもろにダイヤの混乱の影響を受けてしまった人がいました。いつも早く出勤してくる人が今日はなかなかやってこずに、昼前になってやっときたと思ったら「川西池田で各停を待っていたのに、3本続けて快速が来た」と嘆いていました。しかもその間隔が15分おきくらいだったそうで…、1時間近く川西池田で待たされたとのこと。快速だってほとんどノロノロ運転なのだからもう全部各駅停車にしてしまえばいいのに、という感がします。

その後、報道によれば尼崎-広野を全部止めて点検と修理作業になったとかで、大変ですね。問題が起きているのは伊丹近辺だけなのだから、せめて宝塚で折り返ししないのかと思うわけですが(そうでないと西宮名塩のような代替交通機関がないところが困る)、何か事情があったのでしょうか。大混乱に見舞われた利用客の皆さんも修理に当たった関係者もお疲れ様でした。


2007-08-31 ナッチャンRera就航 [長年日記]

tDiary 818日目

_ [交通]ナッチャンRera就航

以前この日記でも触れた青森-函館間の高速フェリーは、「ナッチャンRera」という名前となり、明日就航とのこと。命名が凄く異様な感じがします。

事前にいろいろ予測していた運賃についてはものの見事に予想を裏切って、JRの正規運賃(運賃+特急料金)を上回る片道5000円という値段を付けてきました。なかなか強気ですね。さすがにこれくらい取らないと運航コストの上昇分を吸収できないのでしょうか。自動車で渡航する客がメインのターゲットであって、どうせ徒歩客をまともに相手にしていないのだから、JRの運賃水準と比較することはないという見方の方が正しかったようですね。回数券を使うとかなりディスカウントにはなるようですけど、複数人で渡航するというのでない限りなかなか使いづらいですね。自動車の航送料金もなかなか高く、これくらい運賃が高くなると、短期間の道南旅行とかであればJRの往復割引チケットを使って行って現地でレンタカーを借りた方が安いということになるわけで、果たしてどれだけ勝算があるのでしょうか。

今頃気づいた、随分古い記事ではありますが、東日本フェリーは青森駅、函館駅にフェリーを接岸させる構想もあるとのこと。これが実現するならば、徒歩客にとっては大幅に便利になりますね。わざわざ航路を変更して接岸させようというのですから、それなりに徒歩客の取り込みも狙っているのでしょうけれど、それと運賃設定がマッチしていないような…。18きっぷで渡道しようとする人間が、青森-函館で正規の運賃+特急料金を追加で払うくらいなら船で渡ろうとするという可能性もなくはないのですけど、船は1日4往復ですしね。特急の方がまだ便数が多いですし若干安いですし。高速フェリーはなかなか成功が難しいと思うので今後の推移を見守りたいところです。


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